可哀想な女
「持ちうる一番大きな武器で戦いなさい」というのは母の教えであった。
母は常に大きな槍を側に置いて眠った。槍の柄は古く少し剥げているが、穂の部分は丁寧に手入れされ鋭く尖っていた。わたしは自分の背より随分大きな槍を恐ろしく思っていたが、母が不注意でわたしを刺すようなことは決してないと知っていた。
母は昔とても強く名を馳せた兵士であった。大きな黒い馬に乗り、何人もの大男を刺し殺し、多くの人間が母を恐れ悪夢にうなされたほどだった。わたしはそんな偉大なる母が大好きだった。母の語る戦場の話でわたしは眠った。
「男は可哀想な女を愛するものなの。だけど憐れみを愛とするのって、恐ろしいことだと思わない?」母が愛を語るとき、わたしはいつもやりきれない気持ちになった。母が言うならそうなのだと思った。
母は大層綺麗な女であった。艶やかな黒髪は胸まで伸び、わたしは母の髪に触れるのが好きだった。髪の手入れを欠かさず行っていたので、母の髪からは常にほのかに花の香りがした。
わたしが十八になる頃、母は急な病で死んでしまった。それからわたしは母の大きな槍を抱いて眠るようになった。偉大なる母を思い出させるその大きな武器は、わたしを守ってくれているようだった。
二十一の初夏、女が家を訪れた。声と顔の形からして、わたしより若く見えた。虫の鳴くような声でぽつぽつと喋る、酷くやつれた女であった。
「どうかわたしに食べ物をください」と細い声で言うので、わたしは食べ物を分けてやった。女はまた虫の鳴くような声で感謝を述べて、がりがりの脚を引きずって帰っていった。女は次の日も訪れた。わたしは食べ物を分けてやり、女は感謝を述べて帰った。その次の日も現れた女は、手にぼろぼろの狸を抱えていた。
「わたしの好きな男…」女はぽつぽつと喋った。彼女に少し近づかないと声が聞き取れないほどだった。「わたしの好きな男、死んでしまったの」
女は悲しそうに見えた。今にも泣き出しそうな顔をして、狸を大切そうに抱えていた。
「好きだったのよ。やさしくて、知識の豊富な聡明なひと」
狸は酷く臭った。わたしはなんだかやりきれない気持ちになった。わたしの好きな男が彼女を憐れみ優しく抱くのを想像して、わたしは吐きそうになった。可哀想な女を男は愛するのだ。母は何度もそう言っていた。
「わたし可哀想でしょう」
女はわたしを見た。そのくぼんだ目で、黒色の大きな目でわたしを見た。眼球がガタガタと震えて飛び出してくる想像をして、わたしは恐ろしい気持ちになった。目の前の女が、中身が空っぽの骸であるような気がした。きっと頭を叩けば空虚な音がして、腕を殴れば簡単に折れてしまって、悲しい顔をして涙するのだ。そうして男はこの女を抱くのだと、この女はそうして愛されてきたのだと思った。
わたしは気付くと槍を手にして、女を刺し殺していた。女の体は簡単に刃を通し、血の一滴も流れなかった。からんと音がして、骨だけになったその女はぐしゃぐしゃに倒れた。わたしは女の骨の残骸と、汚い狸を横目に小さくつぶやいた。「可哀想な女は可哀想なだけだと思うわ」これも母の教えである。
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