【14日目】トゥルーマン・ショー
こんばんは。ガッディンギ・ガッディッンギです。なんだそれ。
さて、トゥルーマン・ショーを観ました。初めて観たのでお恥ずかしい限り。
ストーリー
小さな島で保険会社のセールスマンをするトゥルーマンは、しっかり者の妻と共に平穏な生活を送っていた。しかしある日、町で死んだはずの父親を見かけた彼は、自分の人生がテレビ番組のために作られたフェイクで、世界中で放送されていたことに気付き…。
U-NEXTより。フィルマークってあんまりあらすじ書いてないから、この方式の方がいいかもね。変にリンク飛ばなくていいし。
やはり文芸大好き人間として触れたいのは、筒井康隆「俺に関する噂」。もうこれは誰もが触れるところなので、軽く抑える程度にしましょう。ストーリーはこんな感じ。
テレビのニュース・アナが、だしぬけにおれのことを喋りはじめた――「森下ツトムさんは今日、タイピストをお茶に誘いましたが、ことわられてしまいました」。続いて、新聞が、週刊誌が、おれの噂を書き立てる。なぜ、平凡なサラリーマンであるおれのことを、マスコミはさわぎたてるのか?
これが書かれたのは1978年。「トゥルーマン・ショー」は1998年の映画なので、時代を先取りしていますよね。という言説。「おれに〜」が市民生活を続ける人間に突如、スポットライトが当たるのに対し、「トゥルーマン〜」は島を用意して、ある種のユートピアとして、生活の場を提供しているというのが大きな差異でしょうか。やはり、ハリウッドはスケールがでかいなあというくらいのどうでもいい感想がぽわっと出てきます。エクトプラズムのように。
今回「トゥルーマン〜」を観て思ったのは、SNSはよりこういう状況になっているし、その注目される人も嘘だとわかって演技しているよね、ということです。SNSは「個人でどのくらい面白いことをして注目を集められるか天下一武道会」な訳だけど、そこに集まる観客は出場者を見るよりはむしろ、「観客同士がちゃんと同じタイミングで盛り上がれているかな、私は遅れて間違った盛り上がり方をしていないかな」という監視に気を取られているような気がするのは私だけでしょうか。この映画の最後らへんで出てくるセリフにこのようなものがあります。
「番組表はどこだ?」
バズった人物に対して、自分の興味が尽きるまで観察した後はポイ。いつの時代も有名人はこういった仕打ちを受けている。それがまだ、自らが志し、決意した道の涯てならば仕方がないんでしょうが、これが一般の人間にも適応されてしまう。近年、日本に流れてきた海外のサービスは、個人を口コミによって評価するものが多い。プロに飽きたらず、素人までその批評眼に晒されているというのは、なかなか酷なことですね。ウーバーしかり、ネットのフリマアプリしかり。どんどん人間が見えなくなっていって、最終的には星4の人、とかそういう見方になってしまう。まあ、みんなが望んでいるならそれでいいんでしょうが。
世の中に、特に近代から連綿と続く現代に、罠は無数にあってそれを見事に暴いたのがミシェル・フーコーなどの哲学者、または石牟礼道子の「苦海浄土」だったりするのですが、私はこれらの書物を愛している。理由は罠に嵌められたことという意識は常に持っていたいからです。さて、本作。トゥルーマンが生きる世界は嘘なんだと抗議する女性が出てきます。この人は、もともとこのプログラムに参加していた人でした。この抗議に対して、この番組を作ったプロデューサーはこう答えます。
「率直に言って君が腹立たしく思っているのは、彼自身が今の監獄を気に入ってるってことでは?」
こういう感覚は常に持ち続けていたい。あるいは、トゥルーマンが親友にこの世界は作り物なんじゃないかと相談した時に、親友はこう答えます。
「2人が同じ答案。でも安心だった。正解でも間違いでも君と一緒だったから」
現代を生き抜くには、甘美な眠りに対して不眠症であるか、あるいは、その眠りに酔って眠るしかないのかと考えた時に、わかっちゃいるけど、ゾッとする。そして、現代を生きる我々の不眠または眠り姫の人生は、おおよそこのような紋切り型で片付けられてしまうのでしょう。映画冒頭のセリフでお別れ、
「シェイクスピアには劣るかもしれないが、本当の人生だ」
ああ、具合が悪い。