日常から「当たり前」がなくなって
ある日を境に私の中で何かが崩れ去った。
人生観も変わった。
私の中にある黒くて苦しい思い出を供養したくて、ずっと下書きに入れていたnoteをconclude&publishすることにした。
Collapsed
週5日、学校や仕事に行くこと。
みんなと一緒に授業を聞いて、テストを受けること。
公共交通機関に乗ること。
将来について考えること。
好きなことをやること。
毎日起きて日常生活を送ること。
自分のことを伝えること。
これらの「当たり前」だと思っていた生活は、2年半前、突如として私の中から失くなった。
原因として考え得ることはたくさんあるけれど、ここでは特定しない。
ただ、私のやりたいことやそれに関する相談をすると、「だめです」、「あなたにはできないと思う」と言ってくる担任に運悪く連続で当たってしまい、
そんな中でも、私なら変えられる!と愚直に向き合おうとして、自分でも知らぬうちに我慢という形で積み重なった「高校」という環境は、負の思考ループに陥るといつも思い出す。
そのときのわたし
それは突然来た。
高校3年生の10月頃から、朝起きられなくなった。
眠いわけじゃない。
目は開くのに、全身倦怠感と背面痛で体を起こすことができない。頭痛か吐き気が1日の半分くらいはあった。
段々症状は広がっていき、休日も起きられないようになり、学校は3分の1くらい休んでいた気がする。
小さい頃からご飯を食べることが大好きだったのに、食後に吐き気を催すようになり、好きだった食事の時間も億劫になった。
もちろん身体機能だけでなくて、認知機能も動かなくなった。
一番つらかったのは、順序だてて物事を考えたり、論理だてて話をすること、ステップを分けて目標を立てることができなくなったこと。
だから、授業を聞いていても話が理解できないし、人に自分の意見を説明することができない。
過去も今も未来のこともよく考えられなくて、自分の将来についてはもちろん、今の状況を伝えることすら上手くできなかった。
自分が生きているのか、死んでいるのか、
もよく理解できなかった。
集中力や記憶力も低下してきたので、授業を受けたり課題に取り組んだり、テストを受けたりするのも困難だった。
実はその時の記憶もあまりないので、当時書いた日記を元にこの文章は書いている。
他にも、急に言葉が出ずに苦しくなったり、悲しくもないのに涙が出てきたり、家族に八つ当たりしたり。自分でも何が何だか、どうすればいいのかよくわからない状態だった。
思考が停止していて、その場から逃げるという選択肢すら頭に浮かんでこなかった。
それでも、電車やバスに乗ることで頭痛や吐き気が誘引されるのに、壊れたロボットのように、学校に行かなきゃという気持ちには駆られていた。
Aftereffects
大学生になって、自分の関心のある学びと生きがいだった課外活動に熱中できる環境、もう私の好きなことを否定してくることのない周囲の人達に囲まれて、自分でもびっくりするくらいのスピードで、日常生活が少しずつ送れるようになってきた。
しかし、大学生になってから1年以上経っても、電車に乗れなかったり、乗っていてもしゃがみこんでしまったりするときがある。人に相談をしたり、自分のことを話すのもまだ少し抵抗がある。
やっぱりみんなと同じような日々を送れないから、1週間が24時間×7日の生活をしている同級生と話しているとたまに苦しくなる。合宿などの泊まりごとは、普通の人と同じ生活を送れない自分を突きつけられるので、マジでつらすぎて病むかと思った。
あー私はフルタイムで働くことすらできないのか、仕事どうしようと悩んでいた時期もあった。
でも、今の自分ができないことを周囲と比べて、嘆いたところで辛くなるだけで、世間での「当たり前」を再獲得できるわけもなく、社会との縁を切りかねないので、他人と比べそうな場には行かないように努めて、私の脳内から「当たり前」という概念を消そうと思った。
というか、こんなに早く回復しただけですごい!
本当に頑張ったし、やっぱり私は素敵な人たちに囲まれている。それが私の人生において、誰にも負けない自慢できること。今までも。これからも。
だけど、今まで「当たり前」だと思っていたことができなくなったからこそ、今まで見えていなかった世界や感じていなかったことにも意識を向けられるようになった気がする。
帰り道の何気ない景色。
違う視点で見る東京という街の人たち。
街の音は都市や国によって違うこと。
1週間は7日じゃない。
この世界に「普通」や「当たり前」なんて存在しない。
何が大切か、価値があるかは人によって違うし、自分の感性に従っていい。
私が今まで、「普通」とか「当たり前」だと思っていたのは、学校や家庭、私が属していた社会集団の秩序を守るうえで扱いやすい人間の在り方でしかない。後から埋め込まれた支配的な概念なので、必ずしもこの世界におけるマジョリティではない。
「普通」じゃないことに引け目を感じる必要はない。ただその社会での「普通」があなたの感覚に合っていなかっただけ。
だから、まだ言語化されていない「その場で感じること」に本質が隠れている気がする。そして、感じ方は人それぞれなのが面白い。だけど、人間だから根本は繋がっているとも思うんだよね。
ただ、いま改めて考えてみても、2年前、あの状態を防いだり、救ったりすることはできなかったと思う。遅かれ早かれ直面していた気がするし、また直面する可能性だってある。
けれど、壊れたからこそ、今まで見えていなかった、感じていなかったことにも、目を向けられるようになったし、何より「自分への思いやり」を育もうと思ったきっかけなので、よかったと思っている。
今までは、誰かが決めた基準に沿ったり、定められた枠組みに自分を入れ込もうとしたりして頑張りすぎていた気がする。
自分で決めることだってできるし、できなかったら無理して頑張るんじゃなくて断ればいい。自分のために逃げればいい。
みんなと同じようなスケジュールで日常生活を送ることができなくても、落ち込む必要はない。カレンダーには意識して余白を作るようになったし、本当に大事にしたい人や自分の心が動くことに時間を使おうという考え方になった。
それに、段々周囲の人に自分の考えを伝えたり、頼ったりすることもできるようになってきた。
一年前はまだ言葉が出なくなったり恐怖心に襲われたりすることもあった私が、今ではディスカッションができて、人と話していて楽しいと感じるようになったなんて驚きだ。
今の私ならまた同じような場面に遭遇しても大丈夫な気がする。なぜなら、自分を大切にできるようになってきたから。
この経験があるからこそ、私は自分にとって幸せだ!と思える人生をこれから、つくっていける気がする。
そして、こうやって自分の文章を書けることや公開しても怖くないと思える環境が今の私の周りにあることが嬉しいです。
2024年3月29日(あのときから2年半が経過して)
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