“お腹が空いたから食べるは自由ではない”純粋理性批判/100分で名著
人は何を知り得るのか?
人は何を知り得ないのか?
イマヌエル・カント
▼磯野が読み解く「純粋理念批判」とは
哲学者カントは宇宙の心理を読み解くような難しさがあり、実際にかなり難題でした。
ひとつ驚いたのは「お腹が空いたからご飯を食べる」ということが自由ではない、という考えでした。
ご飯を食べていないという「物自体(事実)」を受けて、お腹が空くという「事象」をそのままご飯を食べるというのは「因果律(AだからB)」という自分の意志ではないので、『自由ではない』という。
これには驚きましたし、説明受けると納得させられる哲学でした。
人間が生きるということには、自由と不自由が入り混じった世界であり、いかに自分で選択し続けるかということが大切なのだと思いました。
◯近代哲学の二大難問
純粋理性は人間にもともと備わっている理性のこと
人間が知り得る限界がどこにあるか?
自然科学
ガリレオ、ニュートン、コペルニクス
すべての自然現象は数学によって理解できる
謎1.物心問題
すべての法則が因果法則で縛られているのであれば、人間もすべて縛られているのか?
謎2.主観客観問題
私が認識したことは、本当に客観的な世界と一致しているのか?
その難問から生まれたのが「純粋理性批判」である
皆が共有できること
皆が共有できないこと
自分の外にある「物自体」と自分が受け取った「現象」とに分けて考えて、「認識の成立」となる
共有できる=客観性がある
2段階の認識能力
「感性」直感的に感じるもの
「悟性」感覚的なものを思考したもの
◯なぜ数学や自然科学は共通認識出来るのか?
デイヴィッド・ヒューム
知識の元は感覚的印象であり、
因果法則も習慣的信念にすぎない
蝋燭にチョコを近づけると溶ける
100回解けたとしても、101回目は解けないかもしれない
「Aの後に、Bが起こる」とは限らない
分析判断:主語の中に元々意味が含まれているもの(富士は山である)
経験的総合判断:実際に調べることにより新たな情報を主語に加えた判断(富士は3776mである)
ア・プリオリな総合判断:先天的で経験が必要がない共通規格や因果律(2つの点を結ぶと1本の線しか生まれない)
空間・時間+カテゴリー(12種)=ア・プリオリな総合判断となる(1+1=2)
どんな認識も「私が経験している」というまとめること=純粋統覚
人生を過去の経験から考えて、未来を捉えることができる
◯宇宙は無限か、有限か
理性:推論する能力
理性の本姓
答えが出ない問いまで人は考えてしまう
どこまでも遡って知りたくなる
・不死なる魂はあるか?
・宇宙は無限か、有限か?
・神は存在するのか?
答えが出る問いと、出ない問いがある
アンチノミー
対立する2つの命題がどちらも成立してしまうこと
AはBではない、AはBではない
どちらも成立するとしたら?
・宇宙に始まりがある
→レンガを積むことを考えると始まりがないと積み上がらない
・宇宙に始まりはない
→宇宙が無いということは時間が流れていないので、始まっていない
人間の理性には2つの関心がある
1.完全性を求める
全部たどって完結したい
2.心理を追求する
最後まで探求したい
・自由の原因性はあるのか?
自由はあるか?自由はないか?
人間は因果律に縛られている
◯自由と道徳を基礎づける
実践理性
究極の道徳的世界を思い描き、それにふさわしい最高の生き方を命じる
因果律に縛られている
眠いから寝る
急ぐから走る
疲れたから座る
お腹が空いたから食べる
「〜にしたいから、〜する」
因果律から自由になる=道徳的に生きる
お腹が空いたけど、我慢する
自分の理性的判断に基づいて「これは正しいことだ」と自分で判断することが道徳的価値があり、本当の自由がある
本能のまま行うことは、自由ではない
叡智界→物自体→ 感性:(欲望)
現象界→現象→ 理性(道徳)
頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念を持って、心を満たす二つのものがある
それは、我が頭上の星を散りばめた天空と、我が内なる道徳法則である