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2024年を振り返る

年の瀬ということで、2024年をいくつかの観点からざっと振り返っていきたい。

読書

昨年末から年明けにかけては、レヴィナスとデカルトとの関係に焦点を当てて考えることが多かった。デカルト『省察』における第三省察、いわゆる「神の存在証明」の箇所を集中的に読みながら、レヴィナスの『全体性と無限』における「無限」の概念について検討した。そこで得たのは、レヴィナスはデカルトの「無限」を倫理的概念である「顔」として読み替えた点で、デカルトの思考に多くを負っているという見解だった。自我の思考を、理解を、つねに超えていくものとしての「無限」。この「無限」が他者への「責任」という概念と結びついて「顔」として顕現する。

ただ、「無限」概念を紐帯として、レヴィナスとデカルトの関係について考察することに魅力がないわけではなかったが、私はどこか限界のようなものを感じてしまい、レヴィナスから離れることにした。いや、より正確にいえば、レヴィナスを中心に据えつつも、彼を批判的な位置から読むために、あえて距離をとることにした。ただ、この「限界のようなもの」が一体何を指しているのか、何に対する限界なのか、私自身よくわからずにいた。 

レヴィナスに対して感じたぼんやりとした思いに何らかの輪郭を与えられはしないかと思い、私は、フーコーやアーレント、アガンベン、バトラーなどの現代哲学の方向へと舵を切ることにした。この時点ではまだ、彼ら彼女らがどの程度レヴィナスから影響を受けていたのかはわからなかった。もちろん、20世紀フランスを代表する他者の哲学者が、現代哲学、特に他者との共生を思考する政治哲学の担い手たちに何らの影響も及ばなかったと考える方が無理な話である。その意味でいえば、このラインナップは決して偶然ではなかったように思う。

中でも特に、バトラーの『自分自身を説明すること』(月曜社、2008)におけるレヴィナス読解からは、たいへん多くの示唆を得ることができたように思う。

本書のタイトルである「自分自身を説明すること」というのは、自らの起源を、出自を、アイデンティティを説明せよという他者の要請に応答することである。しかし、私は、私のコントロールを超えた社会的規範のなかで徐々に形成されたのであり、なぜいまこのようにあるのかを私自身が説明できない「不透明性」を抱えている。この「不透明性」は私自身に対する私の完全な認識を挫折させるものであると同時に、失敗からはじまる新たな倫理の可能性を開く契機でもある。自己認識の失敗を通じて、他者からの説明要請にいかにして応答していくべきなのか。自己の完全な認識が可能であると前提する従来の言説における「責任」(応答可能性 responsabilité)ではなく、自己の認識の挫折、他者に対する説明の失敗からはじまるような、別の形の「責任」に関する探究が、本書の課題のひとつでもある。

そのような流れのなかで、バトラーは、他者との原初的関係において被る「外傷」によって、主体の意志の基づく行為が挫折することを示すために、レヴィナスとラプランシュを参照する。注目したいのは次の点である。すなわち、後期レヴィナスが主題化する「迫害」の主体(「身代わり」)が、「自己防衛」の名のもとに自らが振るう暴力を正当化するものとして機能してしまうという。主体は自らの意志で諸々を選択する以前に、すでに他者との関係のうちに置かれている。レヴィナスは歴史的迫害を被り続けてきたユダヤ民族を、前存在論的次元で普遍化された「迫害」の主体モデルに同一化させることで、「ユダヤ性」を主体の本質として特権化している、とバトラーは強く批判している。そのような言説は、「迫害されたものは定義上迫害者にはなりえない」として、イスラエルのパレスチナに対する国家的暴力、ジェノサイドを正当化する理論として援用される危険をはらんでいる。

論者の政治的立場がその哲学・思想の価値を左右するものなのかと問われると、私にはよくわからない。純粋に哲学的言説のみを読解の対象とすべきであり、政治的立場とは区別して捉えるべきだという考えはあるかもしれない。とはいえ、レヴィナスはたしかにシオニズムを支持しており、それを度外視してレヴィナスを語るのでは、やや一面的にすぎるのではないかとも思う。

たしかにレヴィナスの哲学は、あらゆる領域に開かれており、可能性に富んでいるとは思う。しかしそれが「ユダヤ性」という歴史的に形成された一民族の特殊性を普遍化し、そこに属さない(「顔」をもたない)他者への暴力を正当化する危険性を持ちうると見なされるかぎり、手放しに肯定することはできないだろう。距離をとって批判的に検討すること。引き続きバトラーを手掛かりとしながら、レヴィナスとの付き合い方を考えていこうと思う。

語学

今年はじめて仏検を受験した。2022年の春頃から独学でフランス語の勉強を開始。それから2年が経過し、そろそろ腕試しをしてみたいと思い、手始めに3級の試験に臨んだ。結果は幸いにも合格だった。その勢いで、すぐに準2級に挑戦。準2級からは筆記だけでなく、面接試験もある。その対策のために秋頃からフランス語教室に通いだした。その甲斐あって、少しずつだが話せるようになってきたと思う。来月には二次試験が控えている。いまは語彙や表現を増やそうと思っており、生活のなかで出会ったモノや浮かんだ表現をフランス語に訳している。気は早いが、もし合格したら次はdelf(A2)にも挑戦したい。

人間関係

これが一番大きな変化だが、約3年半付き合っていた彼女と、9月末に入籍した。

仕事

大きな変化は特にない。安定している。ひとまず現職で続けていこうと思っている。

まとめ

全体を通して振り返ってみると、2024年は地に足着いた「人間」らしい暮らしをしているなという感じ。安定感。哲学やフランス語の勉強が充実していたし、仕事でこれといって不調になる程の変化はなく、比較的穏やかで安定していたと思う。結婚は人生の大きな節目だが、暮らしぶりは変わっていない。今後は家族が増えるだろうから、そうなるとまた色々と状況も変わっていくだろう。そんな多忙を予期しつつも、いまはこの年末年始をリラックスのための時間として過ごしたい。

皆さまも本当に一年間お疲れさまでした。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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