1.範囲
藤岡訳『全体性と無限』p.362 - p.370
第Ⅲ部 顔と外部性
B 顔と倫理
4 言説が意義を創設する Le discours instaure la signification
2.解釈
前回の解釈によれば、言語は形式的な私と他者(顔)の関係に真の意味での「始まり」をもたらす。デカルト的な無限とコギトの関係は「神秘的関係」と形容されていた。他方、顔との倫理的関係は、言語によって担保される非暴力の関係であり、理性的関係である。言語が理性的思考の条件であるとはそのような意味においてである。 「発話する者」とは、形式的な言語ではなく、真に他者と私の関係を始める者である。形式的な記号体系のうちで構成された自己同一性を解体しつつ現前する、そのような他者である。言語にもとづく倫理的関係は、他者と私を縛られず孤絶した関係を維持する。
ここでいう「受肉」とは、言語は思考の反映物として捉えらている事態を示しているように思われる。言い換えれば、言語は思考の従属物、副産物にすぎないものとして二次的に扱われるのだ。もし思考の延長のさきに身体があるのだとしたら、すべてが科学的視点で説明できてしまうことになる。思考もまた身体の一部となり、要するに、すべては生理学的な説明によって完結してしまう。私たちの日常的な行為についても同様である。身体とそこから生み出される行為をがすべて生理学的に説明可能だとすれば、思考特有の領域も、あるいは身体特有の領域も存在しないことになる。このような言語理論が現代哲学の一部では支持されていることについて、レヴィナスは批判しているのでないだろうか。
思考→言語→身体→行為といった、因果論的な一元的説明をレヴィナスは批判する。レヴィナスは、現代哲学(特にハイデガーの存在論)が抱える諸問題の解決の糸口として、デカルト的な心身二元論(精神と身体の峻別)を再評価しているのではないだろうか。だから、本書では、「言語と活動性、表出と労働を徹底的に分けること」が一つの重要な主題となる。
レヴィナスは、メルロ=ポンティが、言語は「受肉化した思考」すなわち思考の結果ないし副産物として捉える見方は「神話である」と批判したことを一応は高く評価しているようだ。思考から発話(言語)が生まれるわけではない。思考と言語はそのような単線的に関わっているのではなく、より「奥深い仕方で連帯している」のである。しかしながら、レヴィナスはメルロ=ポンティの「身体の志向性」にもとづく言語論に満足しているわけではない。そこで次のように主張する。
言語が意味をつくりだすのではなく、逆に、意味が言語を可能にするという。メルロ=ポンティはたしかに身体と言語の関係を主題化し言語論に新たな地平をもたらした。しかし、それでもなお、言語の本質については謎が残る。レヴィナスは言語に先立つものとして「意味」を呈示している。
思考の基盤は言語にある。そして、意味はその言語よりもさらに先行している。レヴィナスのいう意味とは、他人の顔であり無限である。他人が私の自由を問いただす。そして義務を課す。レヴィナスの倫理の起源はこのような「意味の現前化」なのである。
全体性の暴力に飲み込まれることなく、一人一人がみずからに固有の意味をもちながら生きること。このような「社会の多元的様態」をレヴィナスは構想しているようだ。そして、この社会様態には〈私自身〉の「分離」が必要なのだ。無限はこの分離を可能にする。私と他者は無限に離れている。私たちの間には決して埋めることのできない深淵が横たわっている。絶望的な距離に違いない。では、私たちが倫理的関係のうちで共生していく方途は閉ざされているのだろうか?そうではない。レヴィナスはむしろ、無限による分離こそが「社会の多元的様態」を可能にするという。無限を、他者の顔を受け入れるには理性が必要である。この理性が共生社会の条件なのである。
3.まとめ
思考と言語の関係を一元的に説明する現代哲学(特にハイデガーの存在論を意識しているだろう)に対し、レヴィナスは言語、そしてそれに先立つ意味の観点から批判している。言語は私と他者の間における倫理的関係、真の意味での社会的共生を開始する契機と考えているようだ。言語的関係、倫理的関係を可能にするのは、他者の顔、すなわち無限である。無限に隔てられ分離されているからこそ、私と他者は「縛られず孤絶した関係」において共生可能なのである。