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疲れと健康バロメーターと写真

はいはい、Pinoで~す!
なんていつもの挨拶をするのに気力を30/200使うくらいには謎の倦怠感に襲われている。そんな話をする。

面白いもんでもないと思うから、よっぽど暇な人以外、回れ右を推奨する。着地点も定めずにとりあえず書いてみよう。


私のPCには西表島のシロハラクイナがついてる


今年4月、仕事でちょっと昇級した。仕事内容が変わるもんでもないのだけど、もしかしたら無自覚に張り切っていたのかもしれない。

普段行わないような行事の代表をやったりしてるうちに、気が付けば6月には別の会社でも働き始めて、それこそYouTubeとあわせると3足のわらじを履いているような状況になった。


―――今、ようやく気が抜ける時期に入った感じだ。


この4か月くらい寝てる間以外ずっと頑張り続けてしまったせいなのかもしれないけど、得体のしれない疲れがひどい。

もともと寝ることも食べることも大好きなので身体的心配はないのだけど、気持ちがとにかく疲れてしまって、新しい何かにワクワクすることが減ってしまった気がする。

「気晴らしに」と思ったりするのだけど具体的に計画することが億劫になっているし、実行しようとすることもできない。

動画を作りたいとかYouTubeライブしたいとか、鳥見に行ったり現像したり、流星群も身に行っちゃおうかなという気持ちだけはわくけど、それを行動する元気がない感じ。



やばいな、という自覚はある。


かといって全くワクワクしないわけではないし、単発的に面白さを感じたり気合を入れたりすることはできる。
「本当にヤバイ」の手前で何とか着地した感じだろうと思う。

知ってるかい?
食べそびれたカップラーメンは伸びた後再び固まるんだ…(絶望)


30歳そこらの年齢なので、
人生で何回か「本当にやばい」になったことはある。

その時と今の私とで、最も違うことは「世界に色をちゃんと感じられている」ということだ。


「世界に色が~」なんて言うのは、詩的な表現なんだと思っていた。
でも多分一度「やばいの向こう側」を覗いたことがある人はきっとわかってくれる。


心に余裕がなくなってしまったとき、視力としての色ではなく、感性としての色が感じられなくなってしまうのではないかと思う。


見えているけど知覚できなくなるかのような感覚というのが正しいのだろうか。

なんかうまい表現が見当たらないけど、ヤバイノムコウガワ状態だと、自分という人間の外側にぶにゃっとした厚みのあるスライムのような膜が張り付いてしまって、あらゆる感覚が鈍く・ぼやけているように感じられる。そんな気がするのだ。



今の私はそうはなっていない。

ちょっと歩いただけでも「あ~なんか雲いいな。写真に撮ろうかな、スマホだけど。」と思える。

仕事しにスタバに向かう途中で見ただけの空

写真を撮ろうかなと思えることは、私の中で確実に、健康バロメーターになってる。

写真を趣味にし始めたことも関係しているとは思う。


もっとも、最近はカメラを持ち出して出かけることが非常に億劫だし、気力のほとんどを使ってしまう。っていうか普通に暑すぎて危険すぎる。

疲れちゃうので、【奥義:趣味で息抜き】があまり発動しない。


でも、自分の健康バロメーターの1つに「写真」が入っている。
そんなちっぽけなことに気が付いて、嬉しいななんて思った。そんな話。



流石にちょっと仕事はしすぎだし、何かと頑張りすぎた自覚はあるので、仕事減らせるように調整しつつ暑さが和らいで来る日に備えて鳥の図鑑でもボ―――っと眺めておこうかなと思う。



しばらくは「何もしないを頑張る」っていう名目で過ごそう。ね。

海とかね、行きたいよね。


多分、息抜きが苦手な人もいるよね。そんな人に「わかる気がする」って届けばいいなと思う。

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