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【いじめの要因とは?】 卵が先か、鶏が先か。

”いじめ”
今なお報告が絶えず、それについての論争も絶えない。
人それぞれがいじめについて様々な見解を持つ。
そんな中、ふと見かけるこんな意見


「いじめは絶対ダメだが、被害者にも要因があるのではないか?」

「いじめられた事がある人と話したが、いじめられる理由がわかってしまった。」


いじめの話で度々出てくる「いじめられた人は悪いのか」
その度に論争を生み、最後は「いじめられた人に罪はない」
ここに着地する。何度もこの意見が出ては、何度も同じ流れ、同じ結論で終わる。
何故こうも繰り返すのか?何故既に結論が出ているにも関わらず、
論争が巻き起こり大事になってしまうのか。
この意見が絶えない理由について、そしてこの問題について考えていく。




最初に

まず、何故そのような意見が出てくるのか。

他人の痛みを想像できない人間だから?

ただ対立を煽りたいだけの愉快犯だから?

いじめの加害者だから?

私はいじめられた人の人格に注視した結果だと考える。
いじめを受けている人、受けた事のある人と接し、
「そんなんだからいじめられる」と思ってしまった人がいる。
当然いじめを受けた全ての人の人格に問題があるわけではない。
ほんの一握り、だがいじめを受けた人に問題を感じた人が実在するのだ。
理性で制しているものの、その人たちの中にあるうっすらとした感情が
これほどまで論争を引き起こしている原因ではないか。
しかし、その因果、逆でも成立するのではないだろうか。
「そんな性格だからいじめられた」ではない。
「いじめられたからそんな性格になった」という見方もあるのではないかと
私は考えている。卵が先か鶏が先か。と言った話だ。

誤解を招かないよう言うが、私は「いじめられた人は何をして仕方がない」
と主張する気はない。事情がある人は何をしてもいいのなら、
それは全員に言えること。その先には「誰が一番辛かったか」
という水掛け論しか待っていない。だが許容することはなくとも、
その物事が起きた経緯、本質について考えるのは
その問題を根絶、減少させるためにも重要なことだと私は考えている。



いじめられた人に原因?

いじめられた人と接しその人に問題を感じた人がいると述べたが
具体的にはどのような所か、主に挙げられる理由はこのようなものだ。

「卑屈でネガティブ、一緒にいて疲れる。」

「いつまでもいじめられたことを理由にして、物事から逃げ続ける。」

「攻撃的すぎる、もはやいじめっ子と変わらない。」

「立ち直ろうとしない。トラウマを克服する努力すらしない。」

「社会性が低く、話が通じない。」

その人と接し、いじめと関係がない場面や、
もう相当昔のこととなったにも関わらず、性格の悪さや、回避癖など、人格に問題を感じ、あのような意見を持つことになる。

確かに、どんな過去があれどもネガティブな人とは居て疲れる。
ずっと毒を吐いて前に進もうとしない人間を見ると、拒否感を感じ、「そんなんだからいじめられるんだ」と言いたくなってしまう気持ちもわからなくはない。

しかし考えてみて欲しい。このように思うのは無意識のうちに
「いじめられたことと本人の性格は関係ない」
「いじめられたのは本人の問題ではないが、そこから立ち直らないのは本人の問題」という主観があるのではないだろうか。この部分こそ、
「そんな性格だからいじめられた」という因果関係に行き着く理由である。

しかしいじめによる人生への影響は想像を遥かに超えるものだ。
確かに本人の意思や努力は重要だ。
だが自分の意思だけでは解決が難しい事はこの世に存在する。
例えそれが自分のことであってもだ。




動物と人間、本能と理性

「いじめによる心の損害は簡単に治せるものではない。」私はそう考える。
何故かというと「本能」と「理性」のバランスが崩れてしまうからだ。

誰しも生まれた時から備わっている行動様式が「本能」である。
自分が生きることだけを考え、時として手段を選ばない動物としての側面。
しかし私達は「人間」である。自分が生きることだけを考え続けるわけにはいかない。他者との共存のために高い水準の「社会性」を持たなくてはならない。
そのために「理性」が必要となる。

通常の私達は動物としての利己的な感情を理性で制して生活している。
本来の私達に理性はない。
だが他の動物と比べて命の危機にさらされる機会が圧倒的に少ない人間社会にあって、本能が必要な場面も少なく、動物よりも本能が頭を占める割合は少ない、
つまり余白がある。だからこそ理性を持つことができるのだ。
命の心配をしなくていいから、その分のリソースを理性に割けるのだ。
そのため人間の社会性とは命が脅かされない環境が作っている。

では命が脅かされる環境にいたら?

生きるための本能が脳を占領し、理性を持つ余裕がなくなる。
結果、自分の安全のみを考え、そのために周りを攻撃する動物と化す。
脳が「いつ危険な事が起きてもおかしくない。」と学習することで
常に危険を疑うようになる。少しでも危険を感じれば、
過剰なまで拒絶し、逃げようとする。
これは本人の意思よりも速く生存本能がそうさせているため、
本人が止めようと思って止まるものでは断じてない。

いじめられた人に限らず、精神に異常をきたした人の攻撃性と回避癖は、
本能の過剰反応、過去の経験による脳の誤作動であって、
本人の理性、意思は関与していないことが多い。
そしてそうなってしまう原因として、いじめなどの強いトラウマが存在するのだ。

まとめると「いじめによって命の危機を感じ、脳が理性ではなく本能で動くようになってしまうことで、周りから見ればいじめの原因ではないかと思わせる性格となってしまう。そしてそれは本人の意思だけで簡単に抗えるものではない」ということだ。






いじめの連鎖

ここまでの説明で、こう思う人もいるだろう
「いじめが起こる前の被害者について知っているけど、その時から問題のある性格だった。」だがその意見、「いじめの連鎖」を見落していないだろうか。

確かに、いじめが発生する前の被害者について知っているのなら、
今までの私の説明は的外れだ。しかしその「いじめの前の被害者」は、
本当にいじめを受ける前なのか?そのいじめは本当に一回目なのか?

いじめというのは”連鎖”する。
いじめを受けた事のある人が、もう一度いじめられたり、
今度は加害者となっていじめに加担したりなど、
そんなことがいじめではよく発生してしまう。

一体なぜか、理由としては先ほど述べたようにいじめを受けたことで
生存本能が過剰反応し、自分を守るために周りを攻撃するようになり、
社会性を持てなくなった結果、周囲から疎まれ、
より”2回目”のいじめが起こる可能性を高めてしまうパターン。

あるいは、「何故自分だけこんなに苦しまなくてはいけないのか」との思いから、加害者に回ったり、今度はかつての加害者を「報復」として
いじめ始めてしまうというパターン。主なケースはこの二つ。

私たちがニュースなどで目にする「いじめ」はこの負の連鎖の中の、
いったい何処にあるいじめなのであろうか。つまり、誰かが「見た」という
いじめは、一回目か、連鎖したものなのか、かつての報復なのか
第三者には分からず、「いじめが起こる前の被害者について知っているけど、その時から問題のある性格だった。」という意見も、そのいじめが本当に一回目、
連鎖の最初であった場合のみしか成立しないものだ。




全ての根源は「心の傷」

いじめられた人の性格の問題は、必ずいじめの影響によるもの。
これを実際に検証するには、いじめの前、さらにその前と遡り、それこそ生まれた時から、その人の性格についてどうだったかという話になってしまう。
だがそれは必然だ。何故なら人間の「攻撃」、「卑屈」、「拒絶」、「意地悪」
といった性格を生み出した根源は「心の傷」であるからだ。

いじめまでいかなくとも、何か嫌なことがあったり、
調子が悪かったりした時に人に対してキツく当たってしまったこと、
態度が悪くなってしまった経験は皆多少なりともあると思う。

いじめもそれと本質は同じであり、いじめられた人の性格の悪さは、
当然いじめられた心の傷からくるものだし、さらにはいじめの加害者ですら、
何らかの心の傷からいじめという行為に及んだと、私は考えている。
それはかつていじめられたことかもしれないし、家庭内での不和かもしれないし、辛さの処理がうまくできず、日々自分でも気づかないような負の感情を溜め続けてしまった結果かもしれない。

人の傷が生んだ行動が、新たな心の傷を生み、
その繰り返しによって周りをどんどん飲み込み、傷が広がっていく、
始まりはほんの小さな傷でも、人の命を奪ういじめなどの大きな事柄のきっかけになりうるかもしないのだ。だからこそ原因の特定は難しく、見逃してしまう。
真の「いじめのきっかけ」とは、我々が思うよりも遥かに小さく、
過去のものなのかもしれないと、私は思うのだ。




いじめから立ち直るには

いじめによって理性が保てなくなると話したが、いじめから立ち直るには、
「脳に新しい学習をさせること。」と考えている。

いじめによる命の危機で、「いつまた自分の身にあれが起きてもおかしくない」
と身を守るために偏った学習を脳がしてしまっている。
周りの人間を信頼できなくなっており、
もう一度「誰も自分を殺そうとしてこない」と思わせるためには、
人間同士の信頼関係の修復と本質は同じ。
少しずつ地道に、疑いながらも着実に「死なない」と身に染み込ませ、
脳の学びを上書きすることだ。

これには時間が要る。
まずは自分を傷つけた人、あるいは学校、外の世界そのものに対する恐怖、恨み、悲しみといった感情を吐き出して吐き出して、ようやく
「やってみよう」と「気まぐれ」が起きる。そこで成功体験を積んでいく。
そして徐々に世界に対するイメージを、負の感情から新しくアップデートしていく。そこで初めて、いじめから立ち直ったと言えるのではないだろうか。

ここまで回復するのに一人の力ではまず不可能。
親や、教師、専門のカウンセラーなどが、その子に蓄積した負の感情を受け止め、向き合い、対処法を教えていかなくてはならない。
いじめから立ち直るには、本人だけではなく、周りにとっても険しい道筋なのだ。もっとも、これはいじめに限らず、
全ての心の傷を負った人にも言える話だと感じる。



私の話

私もかつては「いじめられた方にも要因があるのでは?」
と言葉にはせずとも思ってしまっていた。
だが実際に自分が精神疾患を患って、自分のことなのに、自分の意思だけでは解決が難しいことがこの世にあると知り、考えを改めるに至った。

そもそもなぜ、いつか自分の首を絞めるかもしれない考えを持っていたのだろうか、これは私の場合の話だと留意していだだきたいが、
かつてあのような考えを持っていたのは、論理的な思考ではなく、
感情によるものだった。

小学校高学年の頃、私の通っていた学校でいじめが起きた。
私がそれを知ったのは、元々活発な対人関係を築かなかったこともあり、
大事となり学年集会が開かれるほど事態が悪化した頃であった。
私は全くいじめに関わっていない第三者であり、学年集会の後の席替えで、
いじめられた人の隣になることになった。
そして実際にその子と接す機会が増えた訳だが、その子は攻撃的だった。
常に、と言うわけではなく、一切周りのことを考えれないほどでもなく、
そんなに珍しいほど酷くはない。
だが私に幾つか高圧的な態度をとってくることもあった。

私は自分に敵意を向けれることが怖かった。傷ついてしまった。そして、自分を守るために「そんなんだからいじめられるんだ」と過度に思うようになった。
それでも、こんな考えが許される訳もないと感じており、
「だからっていじめを肯定するなんてとんでもない」とも思っていた。
そして行動はもちろん起こさず、自分の攻撃的な感情に無理に蓋をした。
その結果、いじめの話題を見るたびに、「いじめは良くない」と言う部分に同調しつつも、心の何処かでうっすらと、「いじめられた方にも要因があるのではないか」と思う人間になったと言うわけだ。

だがこの「攻撃されて、傷つき、自分を守るために攻撃的になる。」という流れ、何処か既視感がないだろうか。
そう、いじめを受けた人の性格が歪む原因と同じ過程である。
いじめられた被害者に理解を示せない人間が存在する。
しかしその人間の心に起こっているのも実はいじめと似たような心理であり、
第三者のはずが、いつの間にか、いじめの連鎖に飲み込まれてしまっているのだ。
結局、私はいじめの被害者であり加害者と同じ思考をしていた。
問題があったのは私も同じだった。
他人事ではなかった。私は第三者なんて存在ではなかったのだ。



最後に

繰り返しになるが、私はいじめを肯定する気も、
いじめられた人は何をやっても仕方ないと主張する気はない。
だがいじめを受けた人の問題点を見た時に「そんなんだからいじめられる」
と本人の問題にするのではなく、何がその人をそこまで歪ませたのかに焦点を当てていくのが正しいのではないだろうか。
「その人の性格」と蓋をするのではなく、いじめに関わった人、それを見た、聞いた自分も含めて経験、背景、苦しみ、環境などを見ようとするべきだ。
それこそが正しい議論だと思わないだろうか。
これは同情なんて感情的なものではなく、問題の解決のために原因と、そこに至るまでの過程を分析する、論理的で重要なものだろう。
そして、「自分には関係ない」と自分を第三者と思っている人たちに問いたい、

本当にあなたは第三者なのか?

いじめと聞くと学校などの特定の場所で起こる特定の事件とイメージし、
自分は関係ないと思うかもしれない。だがいじめの本質とは人の争い、心の傷、
自分を守ろうとする連鎖であり、これに無関係な人間などいないだろう。
だからこそ多くの人の心に何かを感じさせ、多くの論争を生んでいるのだ。
「これはいじめられた人といじめた人の問題」そう思いつつも、
どこか苛立ち、恨み、恐怖を覚え、感情に引っ張られた意見をしていないだろうか。何か感情が揺さぶられてしまった時点で、他人事ではない。

私は、「いじめられる要因よりも前にいじめがある」と話したが、
結局のところ、根拠は今まで話した通りあるのだが、立証することは難しい。
私はこの考えが間違っているとは思っていない。
だがあくまで見方の一つとしての域を出ないとは感じる。

鶏が先か、卵が先か明確には分からない。だからこそ、
注視するべきは本質、人の心と過程を深く理解する必要があるのだ。























































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