小島信夫を読んで考える⑦(野本240519)
どうも。前回の手紙をいただいてから、少しだけ時間が経ってしまいました。何だかこの二週間くらい、常にスケジュールが埋まっていたのです。手紙が届いた日は、妻と義母といっしょに公園へピクニックに行っていました。昼から日向でキャンプ椅子に座ってだらだらとビールを飲み、おにぎりやサンドイッチを食べていたら、カラスが近づいてきて、まるでハトみたいに首を前後に動かして歩いているものだから、みんなで「不思議だね」「何だあの動き」とか言いながら、カラスの珍妙な動きを笑いながら見ていました。その場で調べてみたら、カラスはぴょんぴょんと飛び跳ねるように歩くこともできるし、トコトコと歩くこともできるそうです。知らなかったのですが、日本に広く分布するカラスは二種類いて、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように歩くことが多いほうがハシブトガラス、わたしたちが見たハトみたいに歩くことが多いほうがハシボソガラスらしいです。カラスによっては、ハトの歩き方をあえて真似て少し小馬鹿にする傾向もある、みたいなことが書いてあるウェブサイトも見つけたのですが、どこまで本当かわかりません。
わたしも図書館で借りた小島信夫の『菅野満子の手紙』を一度で読みきれず、カウンターで「あの、もう一回借りたいんすけど、」と言ったら、テキパキとした職員の方に「次の予約なければ貸し出しできますよー。あ、ないんで、もう一回貸し出し手続きしておきますね。」と言われました。公共の施設ですし、何度言ってもわかってくれない人も来館すると思うので、そのあたりは若干機械的になっているのでしょうか。以前、『寓話』を借りたときも同じことをして、延長して借りることができました。わたしの近所でも現在進行形で小島信夫を読んでいるのはわたしだけみたいです。
そんなこんなで『菅野満子の手紙』を読み終わりました。これは後半、そのなかでも終盤のエネルギーがとんでもないっすね。途中疲れてきて、読むのを止してしまおうかと思いましたが、終盤を読んでから、集中切れしていたところのことも改めて気になって、返却期限ぎりぎりまで読み返していました。
M・Mの手紙だけでなく、他の小島作品にも通底する箇所だと思い、メモしておきました。
本当のことを言うと、というか本当のことって何なんですかね、わたしがいま思っていることなんてこの瞬間のことでしかないし、明日どころか寝る前にはまた変わっているかもしれないのに。そのくらい人間の思考というものは一貫性がなく、常に揺蕩っていて、明確ではないのだと思います。小島作品を読んで改めてそう感じています。それで話を戻すと、『菅野満子の手紙』は、作者が、家にやってきた編集者Sが酔っ払って、彼にキッスをされそうになる件で爆笑した以外、どこをどう楽しめばいいのか、さっぱりわからないまま読み進めていた。それが終盤になると、ある種の種明かしというか、大きな動きが小説の中で生まれて、目が覚めた。それで読み返すと、これまでいまいちピンとこなかった部分に自分が気づかなかった驚きがあり、ああ、この小説ってこんなにすごいんだ、と感じる。作中で編集者M・Mと編集者S、そして作家のG(たぶん後藤明生?)が会話をする場面があって、たしか編集者Sが「小説を小説ぜんたいとして読み取ることに心がけようとしている」と述べている箇所がありました。いま図書館に本を返してしまっていますし、メモを取り忘れてしまったので、正確なことが書けず申し訳ない。だいぶ後半のほうだったので、よかったら手元にある『菅野満子の手紙』をめくってみてください。編集者Sの述べたこととわたしのスタンスはわりと近くて、小説(だけでなくほかの文章を読んだり、映画やマンガなんかを見たりするときも)をいったんは全部読んでみる。すこしでもピンときたり、おもしろいなと思う箇所があれば、全部読んでみる。あまりにも関心から外れていたら、途中で読むのを止してしまいますが、基本は全部読むように心がけている。
最近、またバスケットボールをすることが楽しくなってきて、その流れで海外のプロリーグ・NBAをしっかり見たくなっていたのですが、楽天が放映権を全部買い取っており、NBAを見るためには楽天モバイル会員になるか、割と高めな月額視聴料を払わなければならない。わたしはブチギレて、ぜったいに楽天のカモになってたまるかと、YouTubeで長めのハイライトを見て我慢していたのですが、妻が楽天モバイル会員になったと聞き、即座に「NBA Rakuten」にログインしてもらえないか頼み込んで、快諾してもらい、ようやく視聴環境を整えることに成功しました。これ全試合フルでいつでも見れるんですよ。楽天すげえ。さすが金払って放映権買い取ってるだけあります。そんなわけで最近は毎晩NBAのプレーオフを見ることに必死で、本の書き写しはまったくできていません。小説は気が乗ったら書いています。このことは後で書きます。
これまでハイライトで誰かが編集した試合のポイントを見て、それなりに満足していたのですが、試合をフルで見ると、細かな動きやプレーの生成背景がわかるだけでなく、バスケットボールの試合そのものが、固有の大きな運動体であり、その時々の流れをもって成立しているものであることを改めて実感できます。一つのミスやディスコミュニケーションが、味方に不和を生じさせ相手チームに勢いをつけてしまう。オフェンスがまったくうまくいかない時間帯があれば、突如決まりだす時間帯が続くことがある。点差が離れたとしても、負けではない、ひとつひとつのプレーの積み重ねでひっくり返すことができる。ひとつとしてまったく同じ試合などというものは存在しない! そうしたバスケットボールの試合でしかなされない動きそのものが生まれる瞬間を見逃してたまるものかと思い、毎晩必死で見ている。
わたしは毎晩NBAやBリーグの試合を見ながら、小説について考えている。バスケは常に動きがあって、これはわたしが好きな小説にも同じことが言えるのではないだろうか。さきほどは『菅野満子の手紙』を途中読むのがキツかったと書きましたが、全体を読み終えたあとに再読すると、それは単にわたしが動きに気づいていなかっただけであって、『菅野満子の手紙』は常に予想できないスリリングさに満ちていた!
ピンフくんは最近「わたし」という立ち位置から物を書きたくないから、ベケットを読んでいると言っていましたが、ベケットって「わたし」が消失していると言ってもよいのでしょうか? 実はベケットはまだチューニングが合っていなくて、『モロイ』を途中まで読んで、疲れて放置しているのですが、個人的には、「わたし」が消失しているのではなく、小説の全体像がわからない、掴めないという印象が強かったように記憶しています。むしろ延々と個人の思弁が書かれていたような。もう一回読み直してみようと思います。
たまにインターネット上で自動手記っぽいテキストを目にすると、私はこういう文章を読むのが得意ではないんだと思います。自由にやっているからこそ生まれるのでしょうが、私が好きな自由ではない。ぜんたいを通して考えたい私向きではない。
バスケは時間が決まっていて、ある程度ルールもしっかりと決まっている。相手をぶん殴ったらもちろん一発退場ですし、三歩以上ボールを持って歩いたらトラベリングという反則になって、相手ボールになってしまう。そういった制約があるなかで、いかにしてシュートを決めるか、そして相手を抑えるか……など、瞬時に多くのことを考え、咄嗟に身体を動かすからこそ、予想もしないプレーが生まれるのだと思います。
小説を書くなかでも、私は全体としての流れを途絶えさすことなく、時には流されるままに、自由でいたい。わたしかわたしじゃないかどうかなんてどうだっていい。それはわたしが決めることではない。言葉だけで作られており、一気に読まなくたっていい、生活の途上で少しづつ読まれるだろう小説という形式を踏襲しつつ、何か驚きを生み出すことができないか、そんなことばかり考えています。だから、最近は小説を書く前段階の状態、とにかく考えている状態で、現状できることは今書き進めているものに手を加えるくらいしかしていません、それよりもバスケットボールを見たり、実際にやったりする時間のほうが長い。そうしながら自分の小説のことを考えています。と同時に、これを実作の形でどう表象すべきか、悩んでいるのも事実です。わたしは小説を読んで驚きたいのです。自分で書いたものにも驚きたい。
最後に、野本は「実」ほうに重心が残りつつ読んでいるかもとピンフくんは書いていましたが、そんなことはありません(笑)小説を読むときは、ぜんぶ「虚」だと思って読んでいます。小島作品で言うと、『寓話』は作者の別の作品のモデルとなった人物から、長大な暗号文が届くのですが、こんな長い暗号文作れるわけねぇだろ! と内心つっこみながら読んでいました(もしかすると本当に届いたのかもしれませんがそこはどうだっていい)。
今度またいっしょにお酒を飲むのが楽しみです。それではまた。今晩もバスケを見て寝ます。(つづく)
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