小島信夫を読んで考える③(野本240317)

 ピンフくんもベースを持っているなんて驚きました。というのも、わたしも高校生のころ、クラスの同級生とバンド(文化祭に出るため)を組んでいて、本当はギターを弾きたかったのですが、まわりはすでにギターを弾けるやつばかりだったので、消去法的にベース担当になりました。消去法的に、とは言いましたが、ベーシストは好きで、亀田誠治はもちろん、ストレイテナーの日向さんやthe band apartの原さんなどの演奏をへたくそなりにマネしようとがんばっていました。当時、バスケ部に入っていて、まあまあそれが忙しくて、諸々の生活を心配した父親からはベースを購入することを禁止されていたのですが、なんでもまずはやってみるのが大事やろがい! と思い、父親がいない時間帯に配送時間を設定し、通販で無理やり購入してこっそり部屋に持ち込み練習していた(父親は仕事で帰りが遅いので練習時間を調整することは可能でした)ところ、当たり前ですが父親に見つかり、それはもう怒られました。最終的にはわたしが「すべて手を抜かねぇから安心しろ!」と熱弁し、許可を得たのでよかったです。なんだかんだバスケ部も続けながら、練習のない日にバンド練習できてたのしかった。大学に入ってもベースを続けるつもりでしたが、いろいろあってまたバスケを続けることになってしまい、結局ベースは売ってしまいました。
 しかし思い返すと、中学生のころは休憩時間にこっそりイヤホンで音楽を聴きながら、机を叩いてリズムをとっていたので、ドラムのほうがやってみたかったのかもしれません。というか、リズム? うん、リズムに興味というか関心があったのかもしれない。YMOのユキヒロさんのドラムはもちろん好きです。音楽的な知識が浅いので詳しいことは言えませんが、ずっと聞いていられる。よし、おれもやるぞ! と思い、ヤマハ音楽教室のドラムコースを調べたところ、喫緊の自分のスケジュールがまったく合わず、結局まだ始められていません。あと、レッスン料がそれなりにする。うーん、これでお酒飲んだり本買えたりするな、と思うと、なかなか足を踏み出せない。それでも始めてはみたいので、まずは近日中には無料体験に行こうと思います。

 前置きはさておき、最近は小島信夫の『残光』をもう一度読み、そういえば読んでいなかった『美濃』やよく行く古本屋で年明けに購入した『別れる理由』を少しずつ読み進めながら、小島作品がもつリズムについて考えてしまいます。
 わたしは小島作品を読む際、いつもはじめのほうはどうも身体がついていかず、内心「なんなんだ……一体何が書かれているのかさっぱりわからん……」と思いながら読んでいます。ほぼ修行だと思っています。それが読み始めて数十ページ経つと「あれ、なんかつかめてきたような気がする……これっておもしろいのでは……」と感じている自分に気がつきます(そう感じているうちにいつの間にかまたよくわからなくなって、前のほうを読み返してみたり、逆に先を読んでみたりして、追いつこうとします。必死です。でもそれが楽しい。)。その「おもしろさ」というのはピンフさんにも度々伝えている小説の概念を拡張していくような奔放さ、自由さであったり、先の手紙にも書いた真摯さだったりしますし、ピンフくんも言うどこかくだけた雰囲気、すっとぼけた態度でもあったりします。そして、次々に移る話題によって常に読む側の足場が不安定になってしまうスリリングさにもあると感じています。で、このように自分が「おもしろい」と感じるのは、小島作品ならではのリズム感があるのでは? そう思い、ずっと読んでいるのですが、まだ考え続けているところです。わたしはよく音楽ライブに行くのですが、昨年Hermeto Pascoalというブラジルのミュージシャンの演奏を見て、小島作品に近い印象を抱きました。Hermeto Pascoalは八十七歳でありながら未だに来日してライブができるくらいには元気です。さすがにライブ中は自分の担当であったキーボードを弾くとき以外は座っていることが多かったですし、ステージの照明が老眼には眩しすぎたのか、手でライトの光を防いでいた(それを見たスタッフが慌てて照明の位置を調整していた)のですが、それでも自分のソロになるとまあまあな長尺の即興演奏を披露してくれました。他のバンドメンバーの技巧はそれはもうすごくて、常に心も身体も踊らされたのですが、Hermetoのソロはというと、意図的なのか定かではありませんし素人の印象なので何となくですが、バックの演奏と拍がずれているように感じるタイミングがありました。はじめは感覚的にややノリづらいな、と思っていましたが、Hermetoはあえてそうしているのでは? と思考を転換させると、かれの演奏がぐんぐん身体に入ってきました。ハウスとかテクノのように一定のビートが反復されることで感じる気持ちよさももちろん素晴らしいのですが、リズムをあえてずらしたり、転換させたりすることで、驚きに近い歓びを感じることも確かです(身体は驚きながらも演奏は常に続けられているので踊らざるをえない)。
 わたしは割と生真面目な性分で、こうやって何かを書くときにもつながりやリズムを整えてしまいがちなところがあって、なんというか、それがいざ自分が創作するとなる際に、インパクトを生み出しきれない理由であるようにも感じています。なのでもっとめちゃくちゃしたい。
 ただ、あまりにもめちゃくちゃすぎると自分でもわけがわからなくなることは確かなので、『新潮』二〇二四年三月号で山﨑努が言うように、「物語っていうのはキャラクターの居場所だから、それがなくなってしまうと死んでしまう」から、それは設けたい。この対談で山下澄人や山﨑努がいうように、瞬間を捉えながら、ストーリーを殺さず、自由でいたい。あ、教えていただいた『新潮』の対談、読みました、おもしろかった。特に山﨑努の「アマチュアでいるってすごく大事だと思うんだ。文章もそうなのかもしれないけど、演技をするときに必要なのはプロであることじゃないんだ。裸になって、新鮮な気持ちで役と付き合う。その感覚がなくちゃダメ。」(『新潮』二〇二四年三月号、p.208)という発言に励まされました。演技だけじゃなくて、ものごとを考える上での基盤となる構えだと思います。
 ここまで書いてきて、『残光』の話をぜんぜんしていないことに気がつきました。『残光』は改めて読み返してみると、この作品単体で語る以上に、『菅野満子の手紙』を読むことで語るべきことがさらに広がるかもしれないと思うようになりました。ただ、『美濃』『別れる理由』に加えて『菅野満子の手紙』を併読してしまうとさすがに頭がパンクしてしまうので、一旦は『美濃』を読み終えてから、『菅野満子の手紙』を図書館で借りて読もうと思います。本当は手元に置いておきたいのですが、古本を購入しようと思うといかんせん高い。さっき散歩の途中で訪れた古本屋に『寓話』の初版本が置いてありましたが、帯なしやや痛みアリで八千円くらいしていました。高い。
 で、ピンフくんからいただいた文章のなかで気になることがありました。

 それで『残光』はまだすべては読めていません。う〜ん、すごく「自意識」がジャマしてきます。

 ここの「自意識」についてもう少し聞いてみたいです。読みながら、ピンフくんの中の何かが掻き立てられるのでしょうか。どうしても通読を妨げるような何かについて、非常に気になるところでした。ピンフくんが書くときに課題だと言っている「『私』と書いたときの自分との距離感」ともつながる話なのでしょうか?

 最近知り合いから糠床セットをもらいました。それがきっかけで注文した糠を入れる容器が昨日届いて、さっそくきゅうりやらなすやらにんじんやら入れて仕上がるのを楽しみに待っています。糠床って酸っぱい匂いがするんですね。はじめて知りました。糠床は常温で、できれば毎日かき混ぜるとよく育つそうです。これは何事にも通じるかもしれませんが、地道にコツコツと、が一番良い(し継続するのは難しい)んですね。(つづく)

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