小島信夫を読んで考える⑥(PINFU240506)

 お手紙ありがとうございます。今いちばん言いたいことは、近いうちにまた飲みに行きましょう笑 国分寺で作戦会議したのが一月末だから四ヶ月ぐらい? けっこう経ったな、って思います。
 保坂和志がなにかの小説を読んで、たしかベケットか小島信夫、夜中に読んでいたら外に走り出したくなった、とどこかに書いていました。ぼくは一度それになったことがあって、『各務原・名古屋・国立』の「国立」だったと思います。文庫本の冒頭の二〇ページくらいを読んでそうなりました。じっさいには走り出さなかったのですが、でもその気持ちはすごくわかる。
 なんか頭で考えているだけでは収まりがきかないというか、走ったり逆立ちしたり、とにかくなんでもいいからこの書けないモヤモヤをなんとかしたい! ってなってました。
 ずっと書けなくてすみません。飽きたとかではなく、なにか新しいことがやりたくなって、それをぐずぐず書きあぐねていたら、手紙をいただいてから三週間ぐらい経ってしまいました。
 便秘みたいな感じで、お腹痛いからさっさと出したいのに出ない。ムカムカして、でもこの調子だといつまで経っても書けない気がして、GW中に送ることに決めました。遅くなってすみません。

 手はじめに、というのもエラそうな感じだけど、これまでぼくが書いた手紙には「まだ読んでいない(読み終わっていない)んですが」という言葉が多々出てきますが、今回はその手は使えないと思って読みました。『残光』はもちろん、その中に出てくる小説(長篇はさすがに無理でしたが)、短編は今の段階で読めるものは読みました。それは野本さんの目ではなくて、「社会くん」の目かなとも考えたんですが、自分の目に対して、「まだ読んでいないんですが」と書き出しを書くことに飽きたんですね。「もうその手はエエから読んでみてよ」、小島信夫も、

この短篇小説は、どこということなく、つながっていて、この前の部分を含め全たいを読んでいただきたい。

(小島信夫『残光』新潮社、p.238)

 と書いているし、でも読んでみたけれど、読んだら何かわかる(書ける)んじゃないかと期待していたけどわかりません。「わからないということがわかった」とかそんな話ではありません。とにかくわからない。ほんと、文庫本を部屋の壁に向かってバーン!と投げつけたら少しは気が収まるのかもしれませんが、そんなことはしませんが、お腹が痛いのにうんちが出ないみたいな、吐きたいけど吐けないみたいな。
 小学校から幼なじみのY君は、
 吐いちまえよ、吐けばラクになるよ
 とよく言いました。同じ少年野球チームに所属していて、みんな何かにつけて吐きたくなって、Y君はゲロに対して耐性があって、友達が吐いているのを見ても気持ちわりぃとか言わずに、背中を優しくさすりながら、
 よし、よし、いいぞ、もっと吐け
 と言ってくれるで、でもぼくは人前で吐けなくて我慢してしまう。頭では吐けばラクになることも、その快感も、Y君がそれを絶対に茶化したりしないこともわかっているけれど吐けない。
 小島信夫に対して「わからない(書けない)」とさっき言っていることと、人前で吐けないから我慢してしまうことがイコールになるのかは分かりません。ただ野本さんの書いていた、小島信夫のようにストッパーをはずして、エネルギー全開で書きまくりたいって気持ちはすごくわかるけれど、そんなことしちゃっていいのかなって不安、葛藤みたいなものが自分にはあって、だから小説を書くんじゃないかとも思います。
 日記とかだと「著者=わたし」になってしまうけど、小説はそうとは限らないから、日記よりはストッパーかけずに「ほんとう」を書ける。「ほんとう」が書きたいってわけではなくて、ストッパーの話で、あえて比較するなら小説の方がストッパーをはずせる。でもまだストップはかかるけど。

この後輩の編集者は、『すばる』に連載中の頃、別の雑誌の作者の担当であった。この女性編集者を、天野敬子さんだとあかすことにしたうえでのことであるが、この天野さん(A・Kと呼んでもいい。実名だからといって油断してもらっては困る)とひょっとすると、作者本人が、小説の中にも、外にもあっていうのかもしれない。

(小島信夫『残光』新潮社、p.215)

「虚」と「実」をあえて分けるとしたら、もしかしたら野本さんの中では(そんなことないよとツッコまれるかもしれませんが、本来はニつに分ける線なんて存在しない淡い境界線(境界線すらないもの)なのに「これは虚と実に分けると」と言葉にしてしまうと虚と実に分かれているように錯覚してしまう)「実」の方に重心が残りつつ読んでいるのかもと想像しますが、ぼくはこの三ヶ月で9対1ぐらいに「虚」の方に傾いていて、小島信夫の作品はすべてフィクションなんだ、と思って読んでいます。でもそれは表層的なことで、最終的には「虚とか実とか、問題はそこじゃないよ。関係ないよ」って振り切れるとは予感しているんですが、その前段階として「虚」の方に今は傾いています。
 となるとどうなるかというと小説が書きたくなっていて、もっと考えると「わたし」という立ち位置から物を書きたくないって気持ちで、だからベケットの『名づけえぬもの』とか、「わたし」が消滅して書かれているものを読んでみたりするんですが、さっぱり分りません。

保坂和志の小説論どれからでもいいから読むべきだ。そこに書かれてあるカフカだとかベケットだとか小島信夫だとか読み通せなくていいから読むべきだ。映像の世紀なんて見て(見てたのですが。見てぐったりしているのですが)「人間なんててしょせん」とかいってる場合かよ

(Twitter、山下澄人、2022/09/06)

絵なら絵描きがどれだけ自由に描いても誰も驚かないのに小説はまだ「よくわからない」といわれる。演劇ですらもはやほとんど自由なのに小説は「読めない」といわれる。小説ですよみなさん

(同前、2023/10/16)

山下 当たりがもうないわけじゃないですか。何が当たりなのか知らんけど、かつては売れるとか、たくさんの人に評価されるとかだった。だけど、それがどんどん無効化していることは誰だってわかってる。すごく小さな場所でフォロワーが百万人いますみたいなことがあったって、隣の人は全然知らない。かつて起きていたことはもう起きない。がんじがらめのようでいて実はとても自由です。
(中略)
山下 小説を書くのも批評するのも、実は今、すごく自由です。少し前に言ったことと矛盾するような言い方をしてるけど、だからもうどうでもいい(笑)。好きにやっていい。その代わり金儲けはできない。万が一は億が一になった。気は楽なはずです。

(「創作合評」『群像』2022年8月号、pp.501~502)

ダウンタウンが出てきたときや笑い飯をあんなに笑える国民が、こと劇や小説となると何故こんなにも意味を求めるのか。お笑いなら気楽に眺めていられるけど、劇や小説となると構えてあがるのか。カフカやベケットなんかコントに思うけど。ここがもう常々ちょー不思議。

(Twitter、山下澄人、2010/10/24)

わたしがパクるもの。カフカ。リンチ。ベケット。等等々。よろしく。

(同前、2011/11/21)

 でも『美濃』を読み終わって、『菅野満子の手紙』も読みはじめてすごいですね。俺とくらべるのもおこがましいですが、俺なんか二月の終わりに借りはじめて、まだ八章、青山ブックセンターで保坂和志が朗読、引用していた夫婦が山を登っているシーンで、『残光』の中で小島信夫は、「あんなスバラシイ場面をぼくが書けるわけがない。何か未来の誘いのようにぼくが書いている、ぼくが、とてもいい、とかそんなこと、ぼくが書いたのだろうか。(103)」と言っていて、二人がそう言っているから、と思って読むんだけどあんまりいいとは思えず、「いいと思えない」っていうのは「悪い」っていう意味ではなくて、二人がこんなにこのシーンに惹かれているのはどうしてなんだろうってことで、四回ぐらい読んだんだけどわからなくて、そこから先に進めなくて、もう二ヶ月以上『菅野満子の手紙』を借り続けています。
 ぼくの住む街の図書館ではだれも『菅野満子の手紙』を借りようとしていなくて、二週間おきに図書館へ行くと、
 これ返却お願いします。で、もし借りられたら延長お願いします。
 と言うと、
 次に借りる予約が入っていなければ貸し出しできます。ピッ(本についたバーコードを読み取る音)、大丈夫ですね、貸し出しできます。
 と毎回このやりとりで、
 次に借りる予約が入っていなければ貸し出しできます
 と毎度言われて、
 わかっとるわ!
 と心の中では思っているのですが、わりとこの会話がぼくの中で引っかかっています。
 相手も仕事上、マニュアルとして言っていると頭ではわかっているんですが、お互い分かりきっていることをマニュアルとして言わなきゃいけないから言っている(わたしはそれを聞いている)会話は他にもたくさんあるのにこの会話だけなぜか引っかかる。「お約束」として交わしている言葉なんて、ぼくも仕事でたくさん使っているし、聞いているのに、これだけどうして引っかかるんだろうと思います。それで「予約は入っていないですね。大丈夫です」と言われてほっとして借ります。
 それで今日手紙の返事を書くにあたって『残光』の『菅野満子の手紙』について書いているところと、実際の『菅野満子の手紙』の八章を読んでみたらおもしろかった。ぼわ~ん、と「いいなぁ」って思いました。

「歩きながら話すと、呼吸が苦しいよ」
「女みたいなこというな。話と呼吸に合わせて歩けばいいんだかさ」
「いよいよ時間がかかるなあ。責任がもてないぞ」
 と私はいった。
「気にすることはないよ。話したまえよ」
 と彼女はいった。

(小島信夫『菅野満子の手紙』集英社、pp.77-78)

「それまで殻に入っていたというわけなのね。でもそういう人は、愛一筋なんていいはじめると、裏切られることを待っているみたいじゃない?」
「もともと死ぬ覚悟だった、というくらいの人だからな」
 妻は本を読みあげるようにいった。
「そうよ。それでそのゲーテさんは、夫人の信頼に無条件にこたえんものと、その心構えを荘重に誓ったというのではない?」
 夫は笑った。すると、妻は息をきらせながら、道で立ち止ってそのさきを自分でつづけた。とつぜん木を電気器具で伐る音がきこえた。急に仕事をはじめたのであろう。

(同前、pp.82-83)

 さいごの、どこかから音が聞こえて急に我に帰って仕事に戻る、とかありますよね笑 宿題も、親に「やりなさい」って言われて、「今からやろうと思ってたのに!」みたいな、親からすると「うそつくな」って思うんでしょうけど、こっちはわりと本気でそう感じたり。

「びっくりしちゃったわよ。シュタイン夫人ってゲーテの愛を誓った昔の手紙に鉛筆でアンダーラインを引いたんですってね。O・Mさんはここのところ読ませたかったんじゃない? でも、女ってこんなものなのね。でも、どうしてアンダーライン引いたのかしら。こんどわたしO・Mさんに会ったらいってみるから、教えて? でも、わたしって駄目なのね。子供のときから、他人の前にでると臆病になっちゃうんだから。ああ、苦しいわ、ほんとに、この道って、だらだら坂でいやなのね。山なら山ってハッキリきまりがつけばいいんだけど。おお苦しい! あなたのいったとおりだわ。おしゃべりと山登りとは両立しないのね」
 彼女は笑い出した。
「ああ、よけい苦しいわ。バチが当ったのね。これでは何しにきたのか解らないわ。いったいどうし
ちゃったんでしょう」

(同前、p.84)

 ちょっと思い出したので書くと、阿久津隆さんという、本の読める店フヅクエってお店をされている方が書いた『読書の日記』という本があって、(その箇所をちゃんと引用しようと思って探したんですが見当たらないのでうろ覚えで書きます。たしか『カンバセイション・ピース』の一場面だと記憶していたんですが、それを手がかりに探したけど見つからないので違ったかもしれません)保坂和志の小説の一場面を日記に引用していて、それは風景描写で、家がどういう造りになっているかを書いている場面だったはずなんですが、阿久津さんの日記でそこを読んだとき、どうしてここを引用したのかわかりませんでした。でも阿久津さんはここにグッときたから引用したんだろうなと考えると、百人読めば百人グッときたポイントが違うことがおもしろいというか、とくに阿久津さんの日記を読んだときに印象的にそう感じたからよく覚えているんですけど、そういう瞬間に出会うと、本って活字が並んでいるだけの一見「情報」が並んでいるだけなんですけど、その向こうに生身の人間がいる(いた)ことを実感して、それで言うと野本さんがいちばん初めの手紙で引用をしてた国分寺の散歩コースでかつて地主の奥さんと花の話をして、我が家の二階のトイレのコップに飾られている花、これは人工の花だけど、妻が「キレイね」と言い、立川のホームに入った今もあの時と同じ目の輝きで「キレイね」と言う、あの場面もぼくは読み過ごしちゃってて、だから反省してるとかってことではないんですけど、そうか、野本さんはここで感動したのか、と思って、それがおもしろいし、最初はひっかからなかったけれど野本さんや保坂和志や小島信夫がそう言っているんだから何かあるにちがいないと思って何度も読むのもおもしろいし、野本さんが「いいな」と思った場面を、それがどうよかったかって解釈はなしに、言葉にしようとすると実感から離れてしまうから、ぼわ~ん、と、「おかあさんといっしょ」のコンサートで客席に大きな風船が飛んできて下からみんなで押し合ってあっちこっちに飛ばしあうみたいな感じで、たくさん知りたいし、あんな感じに遊びたいなと思っています。

 さいご質問で締めるのもアレなんですが、野本さんは休みの日は小説を書いて、仕事の日は本から抜き書き、筆写をしていると言っていましたが、それはノートに手書きですか? 一日にどれくらい筆写するんだろうってのも気になるんですが、お互い手紙は活字なので、野本さんはどんな字を書くのかが気になります。よかったら今度見せてください。

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