小島信夫を読んで考える②(PINFU240224)
野本さん、お手紙ありがとうございます。メールも手紙もまったく書かないし、日記や小説は書くけれど、どれも誰かにむけてというより、いつも宛先なく書いているのでヘンな感じです。なかなか筆が進みません。緊張感があります。
改めて、お誘いを快く引きうけてくれてありがとうございます。はじめて野本さんと会ったのは(なんか他人行儀な書き出しですね笑)去年七月の、保坂和志の小説的思考塾で、山下澄人さんがゲストの会でした。ぼくも、どうして懇親会の席で小島信夫の話になったのか覚えていません。「どんな小説を読むんですか?」とかとっかかりはそんな感じだとは思うのですが、どっぷり小島信夫ばかり読んでいたわけではなかったけれど、今もそうですが、わりとちょこちょこ小島信夫を読んでいた時期だったのでぼくから言い出したのかもしれません。
年明けから書いて、野本さんにも読んでもらっていた日記みたいな小説でも野本さんの話はたくさん書いてしまって、そこにも書きましたが、
「『残光』は読んで、ものすごく自由だと思ったんです!」
と野本さんは言っていました。それで今年の一月末に国分寺で会ってデニーズで駄弁って、二軒目の焼き鳥屋で飲み会したときに、
「今回、『残光』で往復書簡するから読み返したら、前は「自由だ」って言ったんですけど、読み返したら、すごく真摯だなって思ったんです」
これは、デニーズはちょっと混んでいて、ウェイティングシートに野本さんが名前を書いて入口通路に並んでいた丸いすに並んで腰かけて、
「さっそくなんですけど……」
とすこし話し始めたときにした気がします。席に案内されて、野本さんはデニーズのパフェを、ぼくは昼から飲めるのがうれしくてビールを注文しました。
そのときはあまり「真摯」の理由はわかりませんでした。どちらかと言えば、とくに晩年の小島信夫の作品はボケた老人の与太話というか、ぼくもそういう気持ちで読んでいたし、小島信夫を読んで「真摯」だと、ぼく自身が思ったことはありませんでした。
でも、
「思いつくままに書いているようでいて、語り手の深奥にある忘れがたい感動、見えづらい感慨に近づくために、書く。まっすぐ書く。ただただ書く。周りからは迂回しているように見えても、当の本人からしたら直線でしかない。書く行為を通じてでしか導き出せない何かが、この場面にあるような気がしてならないのです。」
と手紙に書かれているのを読んで、たしかにそうだな、小島信夫は真摯だな、と思いました。
それで言うと、ぼくがはじめて読んだ小島信夫の作品は「返信」という短篇で、保坂和志を好きになって読んでいたらたくさん「小島信夫」という名前がでてくる。読みたくなって、家に二〇一六年十月に出た、とてもぶ厚い「群像」創刊七十周年記念号があって、七十年のあいだに「群像」に掲載された短篇から選ばれた六十篇くらいが載っているんですが、「返信」がそのうちの一つで、読み出したら、
なんだろう、このくだけた感じというか、しかもそのあと、
これはぼくの勘違いのような気もしますが、当時は、「硝子戸の中」の枕に「漱石の万年筆」の話をしたら違う方に脱線し始めたからこれを書くことで元に戻そうとした感じ、たすけを借りるために書き出したのにあちこち忘れていてあんまりたすけにならなかった感じ、これは今読み返して思ったことですけど、未確定のまま、「まあ、いいや」って感じで書き始めている感じ、
「小説ってこんな態度で書いていいの?」
「態度」より、もっと今のぼくの気持ちにあてはまる言葉がありそうなんですがボキャブラリーがなくて思いつかないのでしょうがないから書いたけど、ぼくも野本さんと同じで、いちばん最初に小島信夫の惹かれたのは「自由」な部分でした。小説に「忘れた」なんて書く人見たことなかったから。
でも「忘れた」とちゃんと書くことは、野本さんの言う、小説に対して真摯であることの一つだと思います。
長くなってきているので、一回目だし、このへんで、とも思ったのですが、もうちょっと書きます。
とにかくこの往復書簡で、今の自分にとっての『残光』を出し惜しみせず語り尽くしたい、と思っています。あくまでも今、二〇二四年、二十七歳の時点ではありますが。
野本さんは自分の課題として視点・人称の揺らぎの話をしていました。ぼくは「私」と書いたときの自分との距離感の話を、国分寺のデニーズでしました。
「読めば必ず解決するということはないだろうけど、『残光』のなかには僕の課題と、ピンフくんの課題と、両方の解決のヒントはある気がする」
と言っていました。こういうことを書くのはすこし恥ずかしいのですが、でもぼくは『残光』に限らず、自分たちが書く小説についても話をしたいと思っているので、もし他人に読まれて「こいつら痛いなぁ」と思われたとしてもどうでもいいことです。そんなことより自分たちの課題について野本さんと共有したいと思っています。
それで『残光』はまだすべては読めていません。う~ん、すごく「自意識」がジャマしてきます。さっき野本さんが紹介してくれた町田康の『私の文学史』を買ってきて、取り急ぎ「エッセイのおもしろさ」の章を読みました。そのなかで、
まさにこの手紙の最初、野本さんとはじめて会ったのは去年七月の小説的思考塾で……という書き出しは、そんなこと野本さんに言わなくても野本さんはわかっているのにわざわざ書いているのは、いずれこの手紙のやりとりを読むかもしれない、わたしと野本さんの関係を知らない読者にむけて書いていたんですけど、恥ずかしくて、「他人行儀な書きぶりですね笑」と自分で自分にツッコんでいます。
『残光』にはそういう「私」がいないような気がします。それは小島信夫はそんな自意識はすでになくなっているということではなく、『残光』にはたくさんの「私」が出てきますが、もちろんこの小説は小島信夫という一九一五年に生まれて二〇〇六年に死んだ、実在した(ネットで検索すれば顔写真もたくさん出てくる)人が原稿用紙に、万年筆かえんぴつかはわからないけれど、実際に手を動かして書いたもので、これ(残光)を書いていた時間がちょうど二十年くらい前にたしかにあった作品なんだけど、でもそれ自体おとぎ話のような感じがして、山下澄人がすこし前にnoteで「わたしの小説のやり方」というのを書いていてそのなかに、
「小説には『場』が必要である」
というようなことを書いていて、さらに二〇二四年三月号の「新潮」で、山下澄人と山﨑努が対談しているそのなかにも、山﨑努が、
「物語というのはキャラクターの居場所だから、演じている瞬間役者のなかに湧き上がってくるものを表現することも大事なんだけど、そっちばっかりやってしまうとキャラクターの居場所がなくなってしまう」
「そこはバランスなんだけど、でもそのバランスが難しいんだよね笑」
と言っていて、でも『残光』にはその「キャラクターの居場所」がない。キャラクターどころか書き手である小島信夫の居場所すらない笑 だからこんなことを言ったら、
「それはお前が注意ぶかく読んでないからだよ」
と誰かに言われてしまうかもしれないけれど、『残光』の中で「私」と言われたときに、この「私」は誰を指しているのかわからない。
それで言うと、野本さんが引用した三十二~三十三ページの、「彼」と書いているところは、あそこには「彼」がキャラクターとして身をおける居場所がある気がします。花畠があり、地主の奥さんがいて、彼ら夫婦がいる。
さすがに長くなってきたし、これ以上たくさん書くと空中分解しそうな気がするのでやめておきます。乱文でごめんなさい。後半はとくに日記を書くように書いてしまいました。でもこれからどんどんストッパーが外れて、バカになって、お互いがどんどん深まっていく、潜水していくのがたのしみです。
手紙の最後にドラムの話がありましたが、ぼくはベースを持っていて、大学一年生の時にバイトのはじめてのお給料で買いました。五万円くらい、ヤマハの亀田誠治モデルです。でもバンドは結局組んでいないし、曲もビートルズの「All My Loving」しか弾けません。宝の持ち腐れ状態です。ドラマーはみんなお好きでしょうが、高橋幸宏が好きです。YMOの一九七九年グリークシアターの「COSMIC SURFIN'」が最高です。
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