小島信夫を読んで考える①(野本240217)

 ピンフくんから、「野本さんへ、『残光』で本を一緒に作るのはどうでしょう。」とお誘いがあったのが今年の一月で、その月末に国分寺で待ち合わせをしてデニーズで駄弁り、二軒目の焼き鳥屋で飲み会を開いてから、あっという間に二週間ちょい経ちました。よっしゃいっちょやったりますか! と意気込んだのはいいものの、まったく進んでいなかったのは、冷蔵庫を買い替えていたり、東京に遊びに来た家族を接待していたり、寄り道で他の本を読んだらそっちに夢中になったりしていて、『残光』を読み返す機会を逃してしまったからです、ごめんなさい。
『残光』で本を作るとは言っても、いったいどうしようか……と悩んでしまうのですが、取り急ぎは読んで考えたり思いついたり思い出したりしたことをつらつらと書いていこうと思います。
 小島信夫をはじめて読んだのは、保坂和志が作品の中で取り上げていたのがきっかけで、確か『アメリカン・スクール』だったと思います。当時住んでいた地域には大きな書店がなく、Amazonで検索をかけてまずは文庫化されているいちばん有名そうなものを購入しました。その中の「小銃」、「燕京大学部隊」、「馬」なんかが気に入って、『抱擁家族』を読み終えたあとに、『残光』を読んだ気がします。
 その流れでいくと、『残光』はその自由さに驚かざるをえなかったように思います。

「曠野」のことをもっと、もっとくわしく紹介することはしたいのだが、うまく出来ないので残念であるが、何しろウソいつわりでなく眼が見えなくて、そうかといって口述筆記に似たことは、もっと情けない文章になるので、このまま続けます。(小島信夫『残光』p.八、新潮社、二〇〇六年)

 こんなことが序盤から平気で書いてあるんだから面食らう。『アメリカン・スクール』に収録されている作品や『抱擁家族』は、世界に対する圧倒的な無力感とそれでも真っ直ぐ立っていなければならないという義務感の、不可思議なバランスに惹かれて読み進めていたような気がします。『残光』になると、まずその書きぶりのおもしろさにグッと心を掴まれてしまいました。
 実際書かれている内容については、当時は『寓話』を読んでいなかったこともあり、よくわからないまま読み進めましたが、それでも読後は確かにおもしろいと感じました。ファーストインプレッションの「自由さ」の迫力がとにかくずっと持続していて、それは今読み返しても変わりません。なので、ピンフくんと保坂和志の小説的思考塾ではじめて会ったときに、どういう流れでそうなったのかはまったく思い出せませんが、小島信夫の話になって、そこで「自由さに惹かれるんですよね〜」みたいなことを話した記憶はあるのですが、詳細はまったく思い出せません。
 ただ、前回の打ち合わせでも話したかもしれないですが、今回『残光』をゆっくり読み返していくなかで、「自由さ」とは別の印象を受けるようになりました。それは、「真摯さ」です。
 『残光』の第一章は、語り手の身辺雑記に近い書き方がなされていますが、その中でも特に惹かれるのは、国分寺の散歩コースについて書かれているところです。妻がまだ散歩ができる時期のことを思い返しながら、散歩コースに住む地主の奥さんに、一帯に咲く花の名前を教えてもらったことが書かれています。

地主の奥さんはつきあって話してくれて、オウナーであるマンションの道近くの小さい花畠の花を説明してくれたり、「酔芙蓉」という花のことをとりわけくわしく、その近所のほかの地主の土地の同じ名の花のことも話してくれた。どこどこに、これと同じ花があるというふうにいうのがその一帯に親しみをもたせてくれた。夾竹桃は離れているが、彼ら夫婦が通りかかることが分っているので、教えてくれ、植木屋が入っていて梯子に上っていったので夾竹桃の名をたずねると、韓国の国家じゃないですか、とこたえた。夾竹桃は、たしか妻が車を走らせていた関越高速道路にも並木ふうになっていたし、我が家の二階のトイレのコップの中にも飾られていた。が、それは人工のもので、くりかえし妻は「キレイね」とふりむいていったりした。その花と同じ種類だといっても、もちろん彼女の記憶に残らず、いつも、「この花キレイね」とトイレでいった。それでも物を云ってくれるということはどんなにうれしいことか。その「キレイね」というときの眼の何とキレイなことか、と彼は自分の部屋の書斎の椅子に腰かけて、涙を流した。それを抑えようとしても、なかなかむつかしく、いつからこんなふうに泣くのが止らないか、と思い腹に力を入れるのだ。
 立川のホームへ入ってからも、個室の窓から外を見てそこにある今ふうの二階家を指さしながら、
「キレイね」
 とくりかえした。
(小島信夫『残光』p.三二〜三三、新潮社、二〇〇六年)

 初読時はさらっと読んでいたように思うのですが、再読した際には、ここで語られる妻の姿に思わず涙ぐんでしまいました。思いつくままに書いているようでいて、語り手の深奥にある忘れがたい感動、見えづらい感慨に近づくために、書く。まっすぐ書く。ただただ書く。周りからは迂回しているように見えても、当の本人からしたら直線でしかない。書く行為を通じてでしか導き出せない何かが、この場面にあるような気がしてならないのです。ちなみに人称が「彼」になっているのもおもしろい。すこし恥ずかしくなって語り手と距離をとりたくなったのかな? なんて考えてしまいます。
 僕自身、小説を読むことが楽しくなったきっかけは、町田康の作品に出合ったからですが、その町田康が『私の文学史』というNHK出版から出ている新書で、(「エッセイのおもしろさ」という章ではありますが、)おもしろい文章というのは、「本当のことを書くこと」、「本当の気持ちを、そのときどきの本当の気持ちを書くこと」で生まれると述べています。僕が小島信夫の作品に惹かれるのは、書きながら自身の奥底にある「本当のこと」、人との関わりから考え広がる人間の「本当のこと」を描きだそうとしているからではないのかな、とも考えるようになりました。
 本当はもっと書きたいことがたくさんあるのですが、第二章や第三章のことにも触れてしまうと長大になりそうですし、まずは第一回目ということで、一旦ここまでにしておきます。あと、まだ読んでいない『美濃』や『菅野満子の手紙』も読み進めます。年始に古本屋で『別れる理由』セットも購入したので、それも読まなくっちゃあ。
 そういえば。ピンフくんが、小島作品に何かしらの関心をもっているきっかけについて、先日聞くのを忘れていました。もう教えてもらっていたら、忘れてしまっててごめんなさい(笑)
 最近は本業が落ち着いていて(これを書いている日は有休でした)、少しずつですが暖かくなりそうですし、いよいよ自分も書くギアをブチアゲていかなければならんなあ、と思っています。あとはドラムも初めてみたいです。楽器のドラム。自分の身体でリズムを刻むと、きもちいいだけでなく、今の自分にとって何かしらのヒントになりそうで。次に会うときまでに、体験でも受けれていたらいいのですが。(つづく)

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