ワンプッシュからの試論
寒風の吹く木曜日の昼、留学生の先輩ふたりと焼き魚のお店へ行った。中国語では「年年有余」という熟語で、「余=魚」の発音が同じであるから、年末年始や旧正月の大晦日に、「毎年余裕ある生活ができますように」という願いを込めて魚を食べることが多い。小さい頃からの影響で、年明けになると焼き魚への情熱だけは100均のお店に入ったときと同じで、先輩たちに「焼き魚はどう」と聞かれたら、すぐ「行こー行こー」とわくわくしていた。
魚は全部「魚」として覚えているので、毎回「なに魚?」と聞かれたときは「どれでもいい」と言うが、幸い、このお店にはおすすめメニューがあるので、早速、注文を済ませたら、先輩たちとたわいのない話で雑談を交わしていた。
「今日も寒いね」「はやちゃん、咳喘息は大丈夫?」
「うん、大丈夫!風に当たったり、喉が乾燥したりすると咳が出るけど、風邪ではないから!」
「なんでかかったの?」
「なんか修論を書いていたとき、ずっと暖房のついた部屋に2週間ぐらいこもると、こうなったよね。」
「もう、修論より体が大事だよ。」
本当にそう。後輩ができたら「修論より体のほうが大事だよ」と伝えておくべきだと謎の決心がついた。
「あれ、なぜ押すではなく片仮名でワンプッシュなんだろう」
先輩の無心の一言が、焼き魚定食を待つ間の三人の遊戯になった。
「たしかに…。なんでだろう?」
「ワンプッシュを漢語にすると…ひとおし?いちおし?」
「でもなんか「いちおし」にすると意味も変わるから、一押し…かな。」と頭を傾げて考えはじめた。
「一推し?」「それは強く勧めるよね」
にしてもワンプッシュって和製英語?プッシュは英語だよね。
「調べてみよう」
阿吽の呼吸のように、三人とも携帯を取り出した。
「ワンプッシュ」でググると1回目はうまくいかず、携帯の画面が「虫とバイバイするスプレー」だけ出てきた。今度は「英語」というキーワードをつけたら、先輩のほうが先に答えを見つけたようだ。
「ワンプッシュ=one-push、英語にはあるらしいよ」
なるほど、これで和製英語という選択肢を除外した。にしても、なぜドアには「押す」で、醬油には「ワンプッシュ」なんだろう。
あっ、「押す」って「指」とも共起するの。掌を使うのではなく?今度は動作の力の入れ所に着目してみた。
「指で押すこともできると思う、たぶん、指や手のひらから体全身まで使って「前」という方向性に向かって力がいくという意味。」
「あと「適量に注いでね」もあとについているから、これを押すときは指を使うから、「1回だけで(軽く)押しただけで済むよ」という意味で、「ワンプッシュ」!」
大根おろしに醤油を「ワンプッシュ」した先輩をみて、もう一人の先輩が、「そうだね、強く押さなくても出るよ、という意味が含意されている」と共感した。
理解がやや遅いわたしには、このときようやく先輩たちの思考回路に追いついたようだ。なるほど、指の動作が遠心的だが、「軽い」という意味が含意されているんだね。たしかに指で押すときを考えると、ドミノ倒しのための「トランプ一枚を押す」、夜の歩道を渡ろうとしたときの「ボタンを軽く押す」、お手洗いの「オトヒメ」も…?この場合は「ぽちっと押す」と言うかな。なにかの手がかりを得たかのように、先輩たちの話をもくもくと消化していた。
そう思いきや、今度は先輩の別の一言に気を取られた。
「自転車を押すという動作も肩を使うよね」「たしかに」
先輩ふたりがこの一言でさらに何かの共通認識を得て、いったん議論をやめて焼き魚を食べようとした。でも、わたしには自転車を肩も含めて押すのがどうしても腑に落ちず、「えっ、肩も使うの。手だけじゃない」と先輩たちに新たな疑問を呈した。
「もちろん、肩を使うよ」
でも手が力の入れ所じゃない?
「いや、こう、前のほうを強く押すという感じ」
前でも手が支えているから、力の行くところが「手」じゃない?
ジェスチャーで説明されたら、ようやくさっきの先入観のような文脈から抜け出すことができた。
「あっそっか、先輩たちとの情景の思い浮かび方が違うよね。登り坂だと体の上半身を使って強く押すんだよね。軽く押す場合の平らな道を想定してたから、手だけで思ってた」
ふふ、この子は、ここまで真剣に「押す」のことを考えているのか。先輩たちがものすごく微笑ましい顔でこっちを見てくる。まあ、これでこの子もようやく焼き魚に手が付けられる、と思っているだろう。
でも、問いというのは、1つ解決したらどんどん次の課題が浮かんでくるものである。今度は、上り坂か下り坂の問題に連想したわたしは、
「そしたら、下り坂は?」といったんつけた箸をまた降ろして、次の問いを先輩たちに聞いた。
「下り坂は普通押さないじゃない?シュっと降りるから。」「いや、その場合は「引く」じゃない?こうして。」
えっ、でも、早くおりたいときは押すよ。こうして、自転車を漕いでダッシュー。
「それ危ないよ。押すではなく飛ぶよ。」
あまりにも真顔で言ったからか、先輩たちを爆笑わせた。言葉の議論で誰かを笑わせたのも悪くない。
「そういえば、これも全部「押す」のことを指してるんだよね、同音異義語の「推す」も同じような効果かな、「人を推す」のように概念と共起すると…」
「2年になったら研究テーマを変えたら?」
「いや…しないしない。」
ワンプッシュという一語の分析にどんどんハマってきた私を見て、先輩たちが笑みをこぼしていた。ただ、「研究テーマを変える」という一言を聞いたら、ようやく「ワンプッシュ」という6文字の呪文から解き放され、現実にある焼き魚と目を合わせた。
変えないよ、絶対に、とこっそりと心の声で一言足した。
言語学に熱心な人は、よく形式の細部の変化を重視し、ルール的な法則を考えることが得意と言われる。ただ、自分は言語学に熱心な人ではない。意味と言語使用者の意図に目を向けがちだから。
現役で好きな言語学理論者がかつて話していたことに強く共感しているとうっすら覚えているが、記憶力の衰えている自分には原文通りに復元できない。おおよその意味としては、人はよく意味のほうに目を向けがちだが(それも至極簡単のことである)、形式の変化に着目する人こそ言語学に向いているそうだ。
そもそもここでいう「形式」はどの単位の形式でおっしゃっているのか。おそらく文以上の単位を考慮しないだろう。またしても意味の観点から考えはじめた。ううん、それこそが文章論の課題のひとつではないか。たしかに、わたしは一般言語学に向いている人の特質を満たさないかもしれない。文章論の大家である佐久間まゆみ先生の理論枠組みを、自分の研究に半知半解に用いたら、なんということ、たぶん佐久間先生に修論を見せる前に、その頃の生意気さにあきれてどこかで穴を掘って自分のことを隠したいだろう。そんな気がしてきた。