喫茶室ルノアールにて
前記 ひと(自分=日本語学習者)は、限られた時間の中で辞書を使わずにどのぐらい書けるのか(?)。それをリアルタイムで見てみたいので、今年4回目の夜行バスを待つ前に東京駅のルノアールに入って、閉店時間までの1時間でひたすら書きはじめようと、プチゲームをはじめた。いろいろ突っ込みどころがあるし、駄文や日本語の誤用が多く含まれている可能性があるが、ご了承くださいませ。
夜行バスの駐車場を見つけたのは、20:58の2分前。なぜそれほど細かい時間に気にする必要があるのか、おそらく旅に出る前の習慣だろう。一人で行くので、バスの時間を逃してしまったら経済的に大変なことになるからだ。
ただ、いつもの一人旅と違うのは、現地合流の形の二人旅なので、向こうについたら誰かと会えるうれしさが生まれてくる。以前より仲良かった博士の先輩がもうすぐ修了するので、今度こそ一時帰国ではなく中国に帰って就職するので、いつものように会えなくなる。別れはもう日常茶飯事になっても、そう思うだけで心に穴が開けているようで寂しくなる。
そういえば、最近、ゼミでよく司会を担当することが多くなってきた。ある先輩から、「これは信頼されている証だ!」と言われてから、司会を担当することになんらかの期待を寄せており、任されるとうれしさが生まれる。なるほど、この場ではよそものではなく、別の形で受け入れられているような気がしてきた。
内省型の人格のせいか、ゼミという状況的学習論に頼るコミュニティには、いつもいろんな形で思いをはせていく。今日も、新たな研究テーマを考え出した。
・問題意識:
大学院ゼミの質疑応答のとき、発表者とその周辺人物の「言語行動」と「非言語行動」が、コメンテーターの<自己アイデンティティの構築>と<ゼミへの所属感>との関連性
※周辺人物:発表者以外、コメンテーターの話を聞いている人(せがわ2024)
・分析基準
<言語行動>○○さんのおっしゃった通り、○○さんのお話と重なるのですがのように、他人への言及コメントの有無
<非言語行動>発表者と周辺人物がコメンテーターのほうを見ているかどうか、発表者がコメントを聞いて頷いているかどうかのように、発表者と周辺人物の頷きと視線の向き方の有無
・内省的人格による観察と主観的な仮説
上記の<言語行動>と<非言語行動>の有無が、内省的人格のコメンテーターへの影響が強い。特にこれらの要素が少ない、またはない場合、個人のゼミでの所属感が薄くなり、自分のコメントに不安を覚えやすい。
にしても、このようなたわいのないものを考え出したのも、特に今日の一つ目のゼミで、自分のコメントへの負罪感であった。これも一種の言い訳にすぎず、ろくに資料を読み込めていない自分に、知識の乏しい自分に毎回、悔しい思いに理由づけようとしている。少なくともお仕事で忙しいのでしょうがないのを言い訳に、挙げていただいた先行文献を読まずにコメントするのは、議論が深まらず、発表者とその周辺人物への失礼な行為になると反省している。
来週からは、言い訳をせずにしっかりと読みこむ前提で、コメントを予め考えたうえでゼミに臨みたい。といつも思っているが、それを長続きするためになかなか難しい(特に自分と分野が異なる場合にコメントのときの不安が大きい)。
自分のできることは、話し言葉のコメントより、書き言葉で一旦整理してから個人向けにメールのやりとりを続けることである。しかし、聞けなかった発表にメールでコメントを寄せても、その人の研究にどれほど役に立てるのか、やはり不安である。
だれかー、このテーマについて研究してみないか、といつも心の中で嘆いている(泣)。
時が21:45。そろそろ片付けてお会計しないと。この駄文も終わらせよう。安い夜行バスを取ったので駐車場には待合室がなく、あと1時間弱は隣のマックで時間潰ししよう。字数をみると、1859字。悪くない数字だ。
量的研究者だとすぐ数字をみてしまうが、それらの数字や形式ものに意味を付与しないと単なる数の並べにすぎない、と言ってしまったらだいぶ炎上するだろう。特に、量的研究者ではないわたしには、びしばし言う資格でもないからだ(修論では量的・質的混合法を用いたのに)。
今後の課題としては、母語話者は一定の集中した時間でどのぐらいのスピードで文章が書けるのか、を見たくなった。そう考えているうちに、もう21:58だ。早く出ないと店員さんが困るだろう。
(時間があれば)続きはまた京都にて!