Enterキーを優しく叩けないあなたへ
私の場合はEnterキーどころか、コマンドだろうがシフトだろうが、どのキーも優しく叩くことができない。
タイピングがうるさい、と、キーボードカバーを渡されたこともあるが、いつもと触り心地が違うのですぐにひっぺがしてしまった。
仕事柄、タイピングは必須作業なのだが、私のタイピングは人を不快にさせてしまう。
申し訳なく思っている、だがやわやわとキーボードを叩くことがどうしてもできない。
そんな私が、なるべく音が出ないよう努力するためには、まずキーボードの気持ちになってみるべきなのかもしれない。と、思い至った。
□
私と愛用のMacBook Airの関係は9ヶ月ほど前に始まった。入社時に支給されたパソコンには、業務に最低限必要なツールを入れている。
Chrome、Safari、Firefoxは開発チェックに。
WordやExcelやPowerPointは資料作成のために最低限必要だし、IllustratorもPhotoshopもAcrobatもpremiereもaftereffectも業務に必要。
更には内、外部との遠隔打合せのためlineとかSkypeとかSlackとか。
業務効率化にぶっこんだアレコレは、きっとこの9ヶ月の間に膨大なメモリを食っている。
まずその時点で私はMacに謝るべきだった。
念のため時折簡単なクリーニングをし、Dropboxを利用することでしのいでいたが、2011年製のMacは結構な頻度で不穏なファンの音を立て、カアッと熱くなってしまう。
その様子は過労で体調不良を訴える社員そのものだ。いや、39度の熱が出るまで体調不良を黙っていたのだろう。
それでも私はMacをこき使い、お前ならまだできるだろ!と叱責した。
作業中にポインタが虹色のクルクルに変わると、私はいつも不機嫌になるか、嫌な笑い方をした。
それから光の速さで再起動し、ログインし直し、ファイルを復元させ、作業を再開する。
その合間に私はコーヒーやお茶を飲んだりするが、Macにはそんな隙を与えはしなかった。
はやく再起動してご覧なさいよ。
という、えらく冷淡なパートナーだ。
Macが安らぐのはきっと私が側にいない時だろう。私がいれば、すぐに電話会議を始めるし、開発テストをするし、画像もいじれば文章もタイピングする。
外付けツールを一切使わない私がMacにかける負荷は想像を絶する。
Macがそんな私と同様の態度をとり始め、私がキーボードを叩きマウスパッドをグリグリするように、私の頬を叩きグリグリされたら。
もしそうなったとしても、私の9ヶ月間の仕打ちの対価としては安いものだろう。
Macが人間ならば、訴訟ものだ。
私とMacの関係はこじれにこじれきって、その絆は今にもクラッシュという最悪の事態で引きちぎられてしまいそう、そんなレベルになっていた。
□
それに気づいた時、私はいつもより丁寧にパソコンをクリーニングしようと思った。できることならゆっくりキーボードを叩いてやろうと思った。
いや、叩くのではない、撫でようと思った。
業務上キーボードもマウスパッドも触らなければ仕事にならない。冒頭に詰め込んだツールも削ることは不可能だ。
だからせめて、私はMacに触れる時に対等なパートナーである事を忘れてはいけないのだ。
もしも私からパソコンを取り上げたなら、ただの雑魚に成り下がるしかない。きっと給料も貰えなくなるのだから。
パートナーあっての仕事であることを決して失念してはいけない。
そう思うと、自然にキーボードを優しく扱うようになっていった。
モノに宿るという八百万の神がいるならば、私は誓いたい。
パートナーと呼ぶべき支給品のMacBook Airを、私は命ある限り対等に扱い、労い、そして関係改善のためにクリーニングを怠らず、収納スペースを確保した暁には外付ツールを導入する、と。