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和味 銀座一丁目
「ラーメンが食べたいの。できれば細麺がいいわね。あと鶏ガラスープであれば素晴らしいわ。静かなお店で、そういうラーメンを食べたいわ。」
その口調からはラーメンを渇望しているようにも思えたが、もしかしたら食べなくてもいいのかもしれないし、食べなくてはいけないのかもしれない。
「やれやれ。」
という村上春樹っぽい気分になったら(もちろん、ほとんどの人がなることなど無いのだろうが、それは今議論するべきことではない。)村上春樹っぽいラーメン屋を訪れることを強くお勧めする。
銀座一丁目駅にほど近い「和味」は地下にある。
例えばラーメン以外のことを考えていたら、きっと綺麗に見落としてしまうだろう。
「みつばちが華やかな花弁を見せびらかしている花のほうへ行ってしまうようにね。」
やっとたどり着いた入り口は地下へと続く。妖しげな階段は村上春樹の世界を思わせるに十分な素質を持っているといってもいい。そして階段はとっても急だしせまいので気をつけてほしい。
「足元に気をつけないといけないのね。」
「そのとおり。それから、降りた先に看板のないドアが3つある。そのどれかが正解というわけさ。あるいはそのどれも不正解という時もある、つまりスープ切れというわけだ。」
やれやれ、である。
正解のドアをくぐり、店内に入ると彼女は怪訝な顔をして言った。
「どうして静かなお店に行くことが1番大事だととわかったの?」
「君がそう言ってたからだよ。」
運良く店内に通された僕らは、カウンターに行儀よく並んで座わった。そして話しの続きをする。
「いつだって、人は自分自身にとって1番重要なことは最後にいうだろう?」
「最後にいう。」
それから極塩とりそばを注文して、僕らは黙った。「極塩とりそば。」店員が確認のために反復した言葉には、肯定の意味を込めて頷くに留めた。それがこの店のルールのように感じたからだ。
肝心のラーメンは完璧と言っても良かった、あるいは完璧そのものだ。
細い麺で鶏ガラスープで静かな店、どれをとっても彼女にとって完璧であることは間違いない。
支払いを済ませて店を出る間際、ふとさっきまで僕らが座っていたカウンター席を振り返ると、彼女の姿はすっかり消えてしまった。
彼女は僕の食欲の権化かもしれない。そんなバカな、と思いながらも、たった一杯分の金額しか店員に手渡さなかった事実からはその結論が1番妥当だ。
「ぼくは、静かな店で、おいしいラーメンが食べたい。」
それを口に出せなかった僕のために現れた食欲の権化。満たされるとすっかり姿を消してしまった。
それから、せまい階段をのぼって地上に出ると、深海から引っ張り上げられたチョウチンアンコウが水圧の変化によって膨れ上がったような腹になっていた。
「やれやれ。」
今日もまた食べ過ぎてしまった。