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詩を書くよりも(『20:30』vol.4収録)

※2023年1月30日に早稲田大学で谷川俊太郎をめぐるシンポジウムが開かれ、私は谷川さんの詩集『旅』を元に書いた詩「先っちょ」を朗読しました。その時の体験について綴ったエッセイ(詩の同人誌20:30 vol.4収録)をこちらで公開します。


詩を書くことは、限界だらけだ。谷川俊太郎さんの詩集『旅』を読んで、私はそう思った。「何ひとつ書くことはない」「僕は詩人のふりをしてるが/詩人ではない」。まだ数年しか詩を書いていない私にとって、このような谷川さんの言葉はあまりにも厳しかった。詩はなんでもできる、常に読者に寄り添って歩かなければならない小説に比べて……。そんな風に思っていた私に平手打ちするような詩集を元に、私は何か書かなければならなかった。谷川俊太郎についてのシンポジウムで朗読するためだった。

『旅』という詩集は、谷川さんがデビューして十年経ったあたりに書かれたものだ。それまで息をするように詩を書いてきた谷川さんは、そんな自らを罰するように強い言葉を使って詩や、詩人の無力さを書いていく。詩の中で、「詩」という言葉を出すのは難しい。「詩人」という言葉を出すのはもっと難しい。詩は、「詩」という概念から離れたところにあるものの方が書きやすいものなのだ。だから、「詩」自体を詩の中で出すなど、もってのほかである。そうやって私が避けていたテーマに、谷川さんは真正面から向き合っていた。

「何ひとつ書くことはない」。本当にそうなのである。私は月に一回、雑誌に詩を投稿していたことがあるが、毎月どんな詩を書こうか考えるたびに、ひそかに「何ひとつ書くことはない」とパソコンを放り投げようとする自分がいることに気づいていた。まず、詩を書くこと、それ自体が全く「詩」ではない。詩を書き始めて間もない頃は、パソコンに向かって一心不乱に書くことが「詩人」ぽい生活だと思っていた。しかし、何年か書き続けているうちに、毎日朝起きて眠い目を擦りながらゴミを出して、冷たいのを我慢して汚れた下着を洗って、乾燥した背中を寝る前に何度も掻いて、そういう生活を積み重ねていくことの方が、よっぽど「詩」ではないか、という気持ちが次第に膨れ上がっていった。詩を書いている生活より、詩と無縁な生活の方が、「詩」に近いのではないか。谷川さんの詩を通じて、そういう考えに至った私は、何も書けなくなった。締め切りが近づく中、夜中にパソコンを開いて見つめ、頭がおかしくなる、頭がおかしくなる、と何度も思った。

 勝手な想像だが、谷川さんもそのような感じで「詩」を書くこと、および「詩人」としての自分に嫌気がさしたのだと思う。多作で、次々と評価の高い詩を生み出せる谷川さんだからこそ、詩を書くことの虚しさと激しい矛盾を突きつけられたのだろう。詩を書いて数年の私が感じるのだから、既にキャリアの長かった彼の葛藤はいかに凄まじいものだっただろうか。「私の詩集が灰になる」という一節からは、その凄まじさの一端がうかがえる。

私はやっとのことで、シンポジウムで朗読する詩を書き上げた。谷川さんの詩を通じて膨れ上がった葛藤を、伝わり切らないことを承知で自分の詩に落とし込んでみたのだ。すると、それを書き上げる前と書き上げた後で明らかに「詩」に対する態度が変わった。大前提として、詩を書くよりも詩に近いことがたくさんあるのだ、ということを私は知ることができたのだった。


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