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2019筑波大学/倫理/第一問

【2019筑波大学/倫理/第一問】

問一 倫理(哲学)を「教える」ことはできるか? このことについて自由に論ぜよ。(400字内)

〈GV解答例〉
『論語』の「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」という一節が答えを示唆している。倫理や哲学は、人の生き方や物事のあり方についての本質を追究する営みである。そのうち、現代の課題に対しても示唆に富む普遍性を備える先人の思想が知識としてパッケージされ、現代人に届けられるのだ。現代の課題は過去を引き継ぎながら形成されるため、徒手空拳で挑むのは愚劣であり、その点知識を「教える」ことには一定の意義がある。ただし、例えば孔子に始まる儒家思想は身分制度と家族主義を前提としており、ジェンダー平等のような喫緊の課題に有用性をもちえない。それでも抑圧の装置として私たちの意識に巣食う障壁を逆説的に炙り出すことはできよう。全ての思想が文脈依存的である以上、それらが立ち上がる過程を注視し、他の思想と比較検討することで思考を鍛え、自らの文脈に適用しようともがくことが、倫理の学びを画竜点睛となすのである。(400)


〈ChatGPTくんの答え〉
倫理(哲学)を「教える」ことができるかについては、教える対象が「知識」か「行動」かに依存する。まず、倫理に関する概念や理論は、他の学問同様に講義や書物を通じて知識として教えることが可能である。例えば、功利主義やカントの義務論といった倫理学説は、論理的に説明し、理解を促すことができる。

しかし、倫理とは単なる知識の伝達ではなく、行動に基づく実践でもあるため、その意味では「教える」ことには限界がある。倫理的行動を身につけるためには、自らの経験や内省が不可欠であり、単に理論を知っているだけでは不十分だ。教師は導き手として指導はできるが、学ぶ側がその教えをどう解釈し、実生活でどのように適用するかは個人の自由意志に委ねられる。

結論として、倫理は知識としては教えられるが、その実践においては、学習者自身の経験や自己理解が重要な役割を果たすため、完全に「教える」ことは難しいと言える。

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