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至高の現代文/解法探究29〈小説・随想②〉

【至高の現代文/記述解法の探究・肉】

ここでは、本書に収録した全200題(記述小問)の解法を、汎用性のある形に分類して提示する。あわせて、各解法ごとに本書収録の参照問題を挙げる。略称は以下の通り。東→東京大学、京→京都大学、東北→東北大学、九→九州大学、北→北海道大学、阪→大阪大学、名→名古屋大学、橋→一橋大学、神→神戸大学、筑→筑波大学、広→広島大学。例えば「19東一.一」は、2019年東京大学の大問一の小問一をあらわす。


26.象徴の含意

象徴表現とは、具体的な事物に抽象的な含みをもたせたものである。象徴表現は文学的文章、とくに随想において好んで問われる。傍線部やそこから敷衍される参照部に象徴表現が出てきた場合、その事物に込められた含みを解読しないといけないわけだが、比喩(メタファー)(→3)がイメージを感覚的に喚起するのに対し、象徴はより慣用的にその含みを示唆する。よって、より高度な共通了解、文学的素養が試されるわけだが、比較的文脈に依存する問いも多く、総合的に判断してその含みを正しく言い当てなければならない。重ねて重要になるのは言葉への理解と感度であるが、現代国語が日本語を基礎とする学びである以上、むしろ当然のことといえよう。

→19東四.二「母」、19阪二.三「故郷」、19広二.五「がき」、19広三.五「役」「キャスティング」、09東一.五「白」(文脈依存)、16京一.五「オウムガイ」(文脈依存)

(例題) 「がきだよ。私は心の中で呟いた」(傍線部(5))とある。日向子がこのように感じた理由を説明せよ。(二行:一行30字程度)〈19広太二.五〉

理由説明問題(心情)。作並の思い出に対するスタンス、母との「初恋」を今に生き直そうとする姿(S)(←問三)を知り、日向子は「(作並くんは)がきだよ」と心の中で呟く。そこにどんな気持ち(M)が含まれているのか。傍線直後が根拠になる。「そしたら哲ちゃんて呼びたくなった。作並くんが、私を日向ちゃんて呼ぶんなら、私も、哲ちゃんて呼んでも良い筈だ」。ここから日向子が、もともと親しい関係にある作並を、年の差をも越えてより対等な、同じ「今を生きる同志(かつ自分と同じがき)」のように捉えようとしていることが読み取れるのではないか。日向子の内面傾向を説明した2️⃣で、「今を見る人」である日向子は作並を「過去を見る人」とみなし、「そこから取り戻したい」と感じていた。ところがどっこい、作並は作並のやり方で、「今」を立派に生きているではないか(日向子自身よりも)。以上より、「高校生として今を多感に生きる自分と同様に/作並もかつての母への初恋の続きを今に実現しようと純粋に生きている(S)/と思えたから(→がきだよ)」とまとめる。

<GV解答例>
高校生として今を多感に生きる自分と同様に、作並もかつての母への初恋の続きを今に実現しようと純粋に生きていると思えたから。(60)

<参考 S台解答例>
作並自身の言葉と裏腹に、作並は心の底では、子どもの頃の母との関係に戻りたいと思っていると日向子は考えているから。(56)

<参考 K塾解答例>
大人でありながら自分の子供っぽさをことさらに否定してみせること自体が子供じみていると感じられたから。(50)

(例題)「みなが店をばたばた閉じはじめる夜の街を、息せききって走りまわっている」(傍線部(エ))とは、どのようなことを言っているのか。本文の内容に即して45字以内で説明せよ。〈20東北大二.五〉

内容説明問題。「みなが店をばたばた閉めはじめる夜の街を(A)/息せききって走りまわっている(B)」という比喩の意味する内容を説明する。この傍線部は、直前の「たいていの人が、ごく若いときに理解してしまうそんなこと(=物語の人間化/縦糸(論理)と横糸(人間の世界)の結合/その必要性)を筆者がわかるようになったのは、老い、と人々が呼ぶ年齢に到ってからだ」と対応する。ならばAの「夜」というのは人生におけるその段階である「老い」であり、そこで「みなが店をばたばた閉めはじめる」というのは「物語の人間化」という営みが終わりに差しかかっているということだろう。そんな中で、同じく老齢になりながら、やっと「そんなこと」がわかるようになった筆者は、その夜の街を走りまわっている、のである。
この「走りまわっている」(B)は、本文を貫く夜行列車のメタファー、夜行列車が時間(=記憶)を回収してつなぎ合わせる、という心象とも重なってもいるだろう。そう読むことで「Bの自分を想像する」の直後、「そんなとき、あの山間の小さな駅の暗さと、ジュネーヴ! という、短い、鋭い叫びが記憶の底でうずく」(この二つの場面2️⃣ 4️⃣で「夜行列車のメタファー」が思念に浮かんだ)という記述も生きてくる。以上より、「人が人生をまとめあげる/老齢にして漸くその術を知り/懸命に記憶の断片(←横糸)を言葉(←縦糸)で繋いでいること」とまとめることができる。

〈GV解答例〉
人が人生をまとめあげる老齢にして漸くその術を知り、懸命に記憶の断片を言葉で繋いでいること。(45)

〈参考 S台解答例〉
多くの人が理解し終えたものがたる人間としてのあり方に老いた今ようやく至り奮闘を続けている。(45)

〈参考 K塾解答例〉
老いの中で、物語にならず忘れられてしまいそうな記憶の断片を拾い集めようとあせっていること。(45)

〈参考 Yゼミ解答例〉
一線を退くような老齢になって初めて、年甲斐もなく創作の作法をがむしゃらに模索しているさま。(45)


27.表現の意図(形式性への着眼)

言葉や表現は文脈に依存するわけだが、一方で特徴的な言葉や表現が文脈をリードする場合もある。表現意図が問われるのは、後者の特徴的な言葉や表現についてである。そう理解すれば、その言葉や表現でなければならない意図を問う問題で、文脈の「中で」答えるのがいかに的外れかがわかるものだ。表現意図を問うているのに、文脈に応じた内容を詳しく説明する「模範」解答がまま見られるが、これは問題の意図を初めから踏み外しているといえる。したがって、「表現」問題は、いったん文脈の外に立ち、メタレベルから該当する表現の前後の落差を見定め、その表現が果たす役割・効果について説明する、という手順をとる。本文内容よりも形式的展開に着眼し、必要に応じて内容レベルの説明を加味するというスタンスで挑まなければならないのだ。誤解の多い問題群なので、この手法をマスターすれば本番で大きな武器になりうる。

→19筑二.二、19広一.七、19広三.五、19広三.六、17東北一.三、17広二.四、16京一.三

(例題) 「父」(傍線部(3))とあるが、同一人物について、それ以前では「父親」と呼び、それ以降では「父」と呼んでいる。その使い分けの効果について説明せよ。〈17広太二.四〉

表現意図説明問題。初めに「父」(傍線)としているのは、戦後五年目に帰沖し、父とブラジルに発つ前に行った洞窟のある森に気づく場面である(4️⃣)。それでは、最後に「父親」という記述が出てくるのはどこか。おじいがブラジルに渡った当初、父といつか酒を飲むことを思い、自分が帰ってくるのを待つ父や家族を思い、孤独に耐え続けた、という場面(A)である(3️⃣)。ここから傍線まで父についての言及はないが、この間にどういった変化があったのか。Aの場面に続き、「しかし、ブラジルでの生活はいつまでも過去にとらわれていることを許さなかった」とあり、「十年も経つと家族や沖縄のことを思い出すこともほとんどなくなった」となる。その後、日本は戦争に突入し、沖縄は地上戦により壊滅的な被害を受けるのだが、それを自分の目で確かめようと思い、五年経った末、帰沖し傍線の場面に至るのである(4️⃣)。
こうして時系列をたどり、傍線以降を見ていくと、おじいは洞窟に父が隠した酒瓶を見つける。蓋をとると、一瞬花の匂いが流れたただけで、瓶の中には何も残っていなかった。おじいは闇の中にぼんやりと座り続ける。「長い時間が経ち過ぎていた。父や母や兄妹たちの顔も、もうおぼろにしか思い出せなかった」。この後、親戚の家で、家族が全滅したことをおじいは知ったのである。
この流れで浮かび上がるのは、父と別れブラジルに渡った後も、父(と家族)はおじいにとっての心の支え、「心理的に近しい存在」(B)だった。しかし、その後「疎遠となった長い期間」(C)を経て、帰国後、(決して父や家族に対する思いが消えたわけではないが)父はどこかよそよそしい過去の存在、「記憶の中で対象化された存在」(D)となったのである。ここで「父親」はBを表現し、「父」はDを表現していることが分かった。その変化をもたらした、Cの指摘を合わせて解答しなければならない。

<GV解答例>
「父親」は、おじいの入植後数年までの、心理的に近しい存在としての父を表す。一方「父」は、その後の疎遠となった長い期間を挟んで、帰国後の、記憶の中で対象化された存在としての父を表す。(90)

<参考 K塾解答例>
「父親」と呼んでいる部分ではおじいが父を生きていると認識していることを読者に示しているが、「父」と呼んでいる部分ではその父がすでに死んでいるとおじいが認識していることを読者に示している。(93)

(例題) 「耳を貸したくないという気持が強いのだ」(傍線部(B))には、筆者のどのような心情が込められているか、わかりやすく説明せよ。(四行:一行25字程度)〈16京大一.三〉

表現意図説明問題。このタイプの問題は、本文の主題についての内容レベルで答えるのではなく、なぜそうした記述(表現Mとする)をしているのかという「メタレベル」で答えなければならない。具体的には「表現M」の前提となる記述を確認し、その上で「表現M」を承けた後にどう記述が展開されるかを追う(ここに「表現意図」が顕在化するはずだ)。
まずは前提の確認から。①段落でまとめられたカーンとポンピアの仮説(問二)に対し、筆者が本文で依拠する科学史家(←注)のグールドは、「いくぶんかの懸念」(以下②段落)を呈する。これに筆者も「もっともだ」とした上で、しかし彼らの推論の大まかな方向づけについてはそのまま「諾ってよい」とし、さらに(というより)「正直に言えば/太古の海で巨大な月を眺めているオウムガイに思いを致すのはあまりに魅力的なので」、グールドの懐疑論には「耳を貸したくないという気持が強いのだ」(傍線部(B))とするのである。つまり、筆者もカーンらの仮説に対する「科学史家」グールドの懐疑論には、基本的には同意している。カーンらの仮説(九本の細線と九日の公転日数が正確に対応する)は、たしかに科学的な厳密性を欠く。かといって、それで「仮説」を排してしまうのは「巨大な月を眺めるオウムガイに思いを致す魅力」からして、あまりにもったいない、という気持ちなのである。
これで傍線の含まれる心情は、ずいぶん具体化できた。しかしこれでは不十分で、先述した通り「表現意図」は「表現M」の後の展開を見ないと確定できないのだ。それで③段落では、カーンらの仮説からキープされる「太古に存在した巨大な月」を話題に、想像は現実に及ばないことが述べられる(→問四)。それを承けて最終④段落では、「オウムガイが巨大な月の短い公転速度に対応して成長線を刻んだ」(P)という「事実」を「知る」ことができることに、筆者は感動を覚えると結ぶのである(→問五)。そのPを「事実」とするためには、カーンらの仮説を、それが科学的な厳密性を欠くとも、一旦飲み込まないといけないというわけである。
以上の考察より、内容自体の説明は最小限にして傍線の「表現意図」(メタ)を説明すると、「カーンらの仮説へのグールドの懐疑論はもっともだ→しかし科学的な厳密性をつきつめて排するにはあまりに魅力的な含みがある→よって仮説から引き出される可能性をあえて保っておきたい(という心情)」となる。画竜点睛となった。

<GV解答例>
カーンとポンピアの仮説に対するグールドの懐疑論はもっともなことだが、科学的な厳密性をつきつめて排するにはあまりに魅力的な含みがあるので、その仮説から引き出される可能性をあえて保っておきたいという心情。(100)

<参考 S台解答例>
カーンとポンピアの仮説に対するグールドの懐疑論に科学的妥当性を認めつつも、懐疑論を拒み、仮説を大筋で認めて、太古の海で巨大な月を見つめているオオムガイへ思いを致す魅力を優先したいという心情。(95)

<参考 K塾解答例>
オウムガイの隔壁間の数がひと月の日数と一致するという仮説への疑念にも一理あると思いつつ、科学的な正確さよりも、オウムガイが太古の海に漂いながら巨大な月を眺めているという情景に魅きつけられる心情。(97)

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