仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER 感想 記憶と存在、現実と虚構
2023年の正月は東映特撮YouTube Officialが1月9日までの限定で仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVERを限定無料公開しており、令和5年の正月から私のタイムラインは平成であふれかえっていた。
人の感想というのは見たい欲を加速させるもので、久しぶりにディスクを差し込んで再生したところ非常に面白かったし、当時色々考えた感想が浮かんだのでここに書いてみようと思った。
あらすじ
現実と虚構
この映画は仮面ライダー電王本編の設定を用いながら、ストーリーとしては「これがこうなったから、こうなってると思うんだけどそうするとここがよくわからん」、「きっとマルチバースな設定なんだけど、どの世界のだれがどんな世界観なのかわからん」という思いが浮かぶ割に、その時その時の感情はわかりみが高いし、最終的には自分が今まで平成ライダーを見てきた分思いがのっかってエモーショナルな部分が動かされるという割と訳の分からない映画である。
しかしこれは意図的な作劇ではないだろうか?作中では度々「現実と虚構」の対比が語られ、メインキャラクターの一人にとっては「仮面ライダー」そのものが我々の認知と同じようにテレビ番組であることが語られる。その際ジオウは自分が虚構であることに怯え、その一方でビルドはそれを意にも介さない。これにはもちろん仮面ライダービルド-桐生 戦兎がテレビシリーズにおいて敵役に文字通り作られた存在であり、真実を知った時のアイデンティティクライシスを乗り越えてきているから、というのはもちろんなのであるが、ここにはジオウがまだテレビシリーズの開始から3か月しかたっておらず、その一方でビルドが1年間放映を終えている存在という対比もあると思う。つまり役柄や、ヒーローというものに対する信頼度が二人の間で演じていた期間の差として産まれているのではないだろうか?
物語の中盤においてはジオウも覚悟を決めたように虚構であろうと現実であろうと他人を救うという決断をし、現実と虚構の境は重視されなくなっていく。
記憶と存在
そしてもう一つ繰り返しモチーフとして出てくるのが「記憶と存在」である。正直前述の現実、虚構、記憶、存在が意図的に混同、及び混合して使用されるため厳密に考えるとよく訳の分からないことになっている。
物語のキーワードとしては「電王」テレビシリーズの”特異点”(何者かによる時間改編の影響を受けず、この存在が覚えている限り存在は保たれるが、逆に特異点が消えると存在が保たれなくなる)というギミックを使って、平成ライダーが消え去ってしまうとかしまわないとかそういうところで使われている。
特撮番組としては記憶に残り、お金を落としてもらわなければ確かに存在しないのも同じであるし、そもそも終わった番組は記憶に残っていなければいなかったことと同じになってしまうし、メディアに残っていたとしてもそれを再生しようというモチベーションは以前見た記憶や、誰かの記憶から出力されたリコメンドによるものになる。これは全ての特撮番組、作品、人間すべてに言えることである。
現実に存在する虚構の記憶
ここまで書いてきてわかるようにこの映画はかなりメタ構造な作品である。仮面ライダーがフィクションであることにショックを受けるという演出はもちろん、
平成ライダーという単語が敵キャラから発せられる
シリーズ最初の作品が生まれないと劇中ではつながりの無い他作品が生まれないという設定
最終決戦で当時から逆算してテレビシリーズを見ていたであろう年代の思い出から生まれるライダー
など枚挙にいとまがない。しかしこの映画は決して見ている人を冷ややかな気持ちにはさせない。アクションシーンの演出や小物、エピソードやスチルを使って「あの頃の自分」をつるべ撃ちに感じさせると同時に、
フィクションと共に生きることを肯定する。
仮面ライダーに限らず様々な創作物は人生に食い込み記憶に残る。救われた作品もあれば、打ちのめされた作品もあるだろうし、生き方を変えられた作品もあるだろう。オタクならば尚更だ。
しかし我々は歳を取る。その中でフィクションにのめりこむことに冷や水を浴びせられるときもある。それは時に自分のうちから加齢や老いという形、または評論家気取りという形でもやってくる。作中にこんなセリフがある。
全てのフィクションは受け手によって存在が生まれる。その存在は現実の受け手の情動と、作り手の虚構に対する熱意との共犯関係によって生まれる。時間が経つにつれてその存在は記憶となる。虚構の記憶ではあるが、全ての物質が時間によって失われ、誰かの記憶のみがその存在証明になるならそこに虚構と現実の違いはあるだろうか?
信じていれば、覚えていれば彼は確かに「いる」んである。
いつまでも、いくつになっても真剣に共犯関係を続けたいものであるし、この作品はいつまでもその気持ちをこちらも持ち続けますよという作り手からのメッセージかもしれない。
まあ次の年に我々は抜けられない共犯関係に引きずり込まれることになるのだがそれはまた別のお話。