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自分の「死亡記事」を書いてみる
木曜日に参加した「大人の小杉ゼミ」の
オンラインセッション、今回のテーマは
「死生観ダイアログ」でした。
公認心理師をなさっている会員の仲間が、
非常に面白いオンラインワークショップを
デザインしてくれたのです。
「ウェルビーイング」ならぬ
「ウェルダイイング」のためには
何が必要か?
そんな問いかけから始まった1時間半。
エンディングノートをいかに準備するか、
ということで、コンテンツとして必要な
ものを参加者がそれぞれ考え、グループ
毎に意見交換。
続いて、グリーフセラピーについての
示唆に富むお話。
そして最後に、「私の死亡記事」を
書いてみよう、というこれまた極めて
ユニークかつ面白い時間となりました。
実は、2000年に出版された、こんな本が
あったのですが、ご存知でしょうか?
割と著名な、総勢102名もの方々が、
自分自身の死亡記事をでっちあげて
いる文章を、文芸春秋が編んだもの。
それぞれの方の死生観が表れており、
つまらないものもあれば、抱腹絶倒、
あるいは巧妙さに唸るものなども
あって、ちょっと古い点を除けば
非常に面白そうな本です。
当日は、一部を例示してもらった上で、
それらを参考に我々が自分自身の死亡
記事を書いてみるという趣向でした。
私自身、死んだときに読んでもらう
「弔辞」を、自分が読んでもらいたい
内容で書いておくということを既に
実践しています。
そして、その「弔辞」の内容を月に
一度見直すということを、自身の
ルーティンに組み入れています。
そうすることで、自分自身がどう
生きたいのか、常日頃から振り返る
きっかけをつくることにつながり、
それが結局は日々の生活の質をグンと
上げることにつながるのですよね。
「死亡記事」を書くことと、
「弔辞」を書くこととは、
かなり似た部分もありつつ、
微妙に異なる部分もあります。
「死亡記事」の場合、あくまでも新聞など
ニュースに載る前提となるので、自分が
有名人という仮定の下、一般の人が是非
読みたいと思うような内容に仕立てる
必要があります。
これに対して、「弔辞」の場合は、
家族や友人・知人のみが対象となるので、
必ずしも一般人に広く分かりやすくする
しなければならないわけではありません。
その大きな制約を取っ払うことができる
だけで、かなり中身が変わって来ると
想定されるわけですね。
いずれにしても、一旦自分のことを
俯瞰して眺めてみて、死んだ後に
他人は自分の死をどう受け止めるの
だろうか?というのを考えてみる
ことは、非常に有意義な経験となる
でしょう。
死を考えることは、結局のところ
生きることを考えること。
生きることを考えることは、
日々の生活の質を上げることに
直結します。
このワーク、是非多くの方にやって
いただきたいと思います。
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