真のエンジンがかかったとき、音は限りなく静かで。
行動的になれと急かす夏が終わり、物想いにふけるなら今ぞと促す秋。
もっと情熱があったはず。
もっとエネルギーが湧いてたはず。
どうしてかもわからないが心が曇っている。重たい。
天高い透明な空とは裏腹である
……というのがほんの1ヶ月前とか2ヶ月前。
今は、じんわりと暖かい冬を迎えている。
劇的に行動的に、情熱的に戻ったということはない。
むしろ、それが僕には不自然で、不協和音を奏でている、作り上げた存在だったんだと認められる僕になれた。
「共依存では?」
ある日、妻がYouTubeで見ていた動画の中でチラッと出てきた言葉。
共依存のような人とは距離を置きましょうね〜なんて言っているごく普通の、当たり障りない内容だったと思う。
僕は、学生の頃も社会人になってからも、社交的に振る舞って頼りがいのあるイケてる自分でいようとしたし、その評価を得ていた自分に酔っていた。
そんなもんだから、昔から記事やTwitterで「共依存」と見た時は
「なんて弱い」
「なんて自分がないんだろう、活力出せよな」
なんて思ってた。
後に、まさか自分がドンピシャそれに当てはまってると気づくんだから、特大ブーメラン選手権優勝である。
自分が否定したくなるもの、過敏に反応するものは、
水面下では、認めがたくも、
自分がそのものになっているんだ
と身をもって知ることになる。
さて、その共依存との言葉がその時は何故か頭に残った。
妻がそんな動画見てたから、僕の振る舞いによくない点があったらいけないと思ったのだろう。
そもそもどういう定義を調べてみるか、と偉そうに思って調べてたら、まぁ当てはまることたくさん。
・自分を犠牲にして相手の世話をする
・相手の感情や考えを変えようとコントロールしようとする
・害があるのに穏便にすませようとする
などなど。
特に、相手の感情は自分でコントロールできないのにコントロールできると思い込んで尽くす、行動する、そして表面上はいらないと言いつつ心の中では見返りを求めている。
たしかに、思い当たることたくさん。
自分の相手への行動で自分の存在を認識していた。
もっと言うと、自分が取った行動に対する相手のリアクション次第で自分の存在価値が変わっていた。
そして、いいリアクション(=見返り)をくれないと自分の存在価値がないと思い、塞ぎ込んだりいきなりキレたりする。
相手は自分の鏡であることは確かだけれど、相手をいいように使っていたんだ、僕は。
自分の存在価値は自分でしかわからない、他人に決められない絶対的なものなのに、
自分の内面、心の内側を見ずに、
自分の外側の世界でなんとかしようと、僕はどういう存在なんだろう、やりたいことはなんだろう、と自分ではないものに問いかけていつまでも首をかしげている。
……なんともまぁ、答えから全力で逃げている自分に呆れるというか憐憫の情も湧くレベルである。
自分で自分をまっすぐ見たことはあるか
唐突に自分の弱さを突きつけられた僕は、いつものように逃げて、外の世界の楽なものに走ることはなかった。
むしろ、
「あぁ、そうか、僕は自己肯定感低かったんだ」
「僕の自己肯定感は低くて良かったんだ」
と妙に安心感を覚えたのだ。
自信満々社交的ポジティブ男だったはずの僕が、実は自己肯定感ががっつり低いんだ。
ポジティブな姿は自分の心の奥底から望んでいる姿であるか?と問われたとき、
一部はYESであっても、
内心、もっと他のことを望んでいる気がするとは思っていたようで、そのズレが少しずつ疲れてさせていたようだ。
それが上で書いたような、曇っているような重たいような秋を僕に迎えさせたのだ。
さて、自分の自己肯定感が低いのはわかった。
で、どうすればいい?と外側に求めたくもなるけど、自分にしかわからぬ自分が何たるかを問うわけにもいかない。
せめて、自分の分析方法くらいは問うていいかもしれない。
妻が大量に持っている本から、いくつか紹介してもらった中に、
城ノ石ゆかりさんによる「未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する」
があった。
とりあえず紙に書きながら実践してみることにした。
A…実際に起きたこと
B…自分の信念、価値観
C…感情、思ったこと
Bが最適化されて自分には当然であると思っているがゆえに、無意識に刷り込まれて見えなくなっているようだ。
僕の場合、例えば
A…試験に合格しない
C…焦り、ツラい、悲しい
まぁ想像できるようなAとCである。
ところがBは紙に書き出せば出すほど闇が深い深い。
B…試験に合格しない僕は存在価値がない
→社会的地位がなければ人は認めてくれない
みたいな。
その裏にあった根源的な思いとして、
「僕は無条件に愛されたかった」
というところまで辿り着いた。
あれ?
幸いにして両親や仲間には恵まれていたし、
条件を提示されて条件満たさないと愛さないからな、なんて人から急かされた思い出はなかったよな?と思いつつ、
・勉強でいい成績残さないと失望されるのではないか
・集団の中で役に立つ奴でないとハブられるのではないか
・運動もできていないと女の子から相手にされないのではないか
なんていろんな条件付けを、環境に合わせてうまく生きていくために自分で設定していき、最適化していたのだ。
僕は無条件に愛されているんだから、試験に落ちてみたりして妻の愛を試すようなマネをしなくてよかったのだ。
意図的に試すつもりで落ちたわけではないが無意識のうちに落ちるようにしていたんだろう、とまで気づいた。
ほら、どんな状況の自分でも、いろんな人から実際愛されてきているじゃん、と僕に言ってみたとき、
自分を守るためにやってきたつもりが、
途中で他人の評価のために尽くすことにすり替わっていたんだな、と思った。
そんな僕が僕だけのことを考えて僕のために何かできていただろうか…?
真のエンジンがかかったとき、音は限りなく静かで。
人間、生まれてきたときに心臓という身体的なエンジンがかかる。
これは他人には中々聞こえない躍動するエンジン。
そして対外的な、他人のため、あるいは何かのために駆動するエンジンがかかるときがある。
他人にわかりやすい対外的なエンジンは、えてして音が大きい。
仲間には話しやすいし、盛り上がりやすいし、SNSにも書きやすい。
奥に秘めた熱があるのかもしれない、打算的な狙いがあるのかもしれない。
熱、狙い、他人の評価を燃料にして、他人に分かりやすい駆動をする、対外的なエンジン。
今回、僕はもっと根源的な、精神的な真のエンジンを手に入れられたと思う。
読者のあなたに独白してる時点で対外的なエンジンでは?という声が聞こえてきそうだけれど……。
物事を積み上げられる自分の真の土台を手に入れた感覚。
対外的な要素は変わらないのにゼロスタートに戻った。
僕の土台に僕が積み上げたいものを積み上げられるんだ、と、限りなく自由な気分になれた。
外からはわからない真の(芯の)エンジンは、真の土台をベースに夢や希望を燃料にして自由に駆動する。
自分を見つめた真の土台であればあるほど、
自分が真に願った夢や希望であればあるほど、
エンジンの回転数はあがる。
真のエンジンがかかったとき、なめらかだが、無骨に燃えるような強さを感じさせた。
僕だけが聞こえる、僕だけのエンジンの音は、
誰が為に響かせるものでもなく、
限りなく静かだった。