日本舞踊指導者の花柳龍千多(はなやぎ・りゅうちた)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2023年1月号
「大好きなクリチバの地で日本舞踊を教え、伝えることができたのはかけがえのない幸福です」―。
昨年10月、約30年にわたってパラナ州クリチバ市で日本舞踊を指導してきたサンパウロ市在住の花柳龍千多さん(本名・木下多千代、82歳)の貢献を称える表彰状授与式がクリチバ市議会で行われ、龍千多さんは喜びの気持ちを表していた。
北海道積丹(しゃこたん)半島の漁師町・古平(ふるびら)町で4人弟妹の長女として育った龍千多さんは幼少の頃から、魚の煮付けなど魚介類の食事が中心だった。そのため、小学校時代は「大きくなったらサラリーマンと結婚し、(当時は高価だった)卵をいっぱい食べたい」と夢見ていた。
しかし、12歳で父親を亡くし、15歳になった時に母親から手に職を付けた方がいいと言われ、小樽市の街にあった理髪店で単身、丁稚奉公することに。20歳までの5年間、住み込みで働き、理容師としての資格も取得した頃、戦前にブラジルに渡っていた母親の兄(伯父)から「家族でブラジルに来ないか」と誘われた。しかし、当初、ブラジルに渡るには男の家長が必要で、結婚適齢期だった龍千多さんに「誰か結婚して一緒にブラジルに行ってくれる人はいないのか」と白羽の矢が立てられた。
当時、小樽市で週1回の割合で理容師の技術講習を行っていた講師の一人に、理容師としての技術もあり端整な顔立ちの木下利雄(としお)さん(故人)がいた。ブラジル行きの話を利雄さんに相談すると賛同され、付き合いを経て結婚。1961年、オランダ船「ルイス号」に乗船し、龍千多さん夫婦、母親、3人の弟妹ら家族でブラジルに渡った。
ブラジルに着いてすぐ、東洋街ガルボン・ブエノ区に伯父が造ってくれていた床屋で夫婦して働くことに。当時は1世の移民も多く、日本から正式な理容師の資格と技術を持った夫妻がやっている店として評判となった。
「その頃はアイパー(アイロン・パーマ)が流行した時期で、青柳や赤坂などの料亭でボーイとして働いていた男性や、コロニア(日系社会)の偉い人たちが来ることも多かった」と振り返る龍千多さん。2年目には伯父から独立して、自分たちの店「サロン木下」を同じ東洋街に開けた。その後、理容師を育てるための養成所も開くなど多忙を極め、約20年にわたって理髪業に携わってきた。
その間、ブラジルに来て3年目に人づてで花柳流日本舞踊の花柳金龍(きんりゅう)師(故人)を紹介された龍千多さんは、80年代初めに「名取」となった。
一方、80年代後半の頃には、東洋街で日本食レストランをしていた常連客の夫人から「ウチの店を買ってくれないか」との相談も受けていた。「他の人には売りたくない。あなたならできる」と言われてその気になり、利雄さんに相談したが、当初は理髪店が軌道に乗っていたこともあり、怒られたという。しかし結局、理髪店を売り、「レストラン木下」として出発する新しい道を夫婦して選んだ。
レストランでも働きに働いた木下夫妻は同じ東洋街の広い店舗に移るために当時で1000万円にも及ぶ借金をしたが、それも懸命の努力により、2年で返済することができた。
その後、90年代からは月に1回、パラナ州クリチバ市を中心に単身出張して日本舞踊を指導していたこともあり、同地で高級日本食レストランを開業することになった。寒い気候が北海道育ちの龍千多さんの肌に合い、服装のお洒落ができることも気に入っていた。そのため、クリチバ市内で4年間営業したが、時期尚早の時代で、泣く泣くサンパウロに撤退した。しかし、その間の97年には当時の天皇皇后両陛下(現在の上皇・上皇后陛下)がブラジルに来た際にクリチバ市も訪問。両陛下の御前で龍千多さんが指導した門下生たちが日本舞踊を披露し、その日の夜は夫の利雄さんが両陛下に日本料理を振る舞う栄誉に恵まれた。
拠点をサンパウロに戻し、60歳の時にレストラン業を娘婿たちに引き継いだ龍千多さんだが、月1回のクリチバでの日本舞踊指導は現在も続けている。約30年に及ぶ地道な継続と貢献が冒頭の表彰へとつながった。
「人には言えないような辛いこともありました。しかし、頑張れば頑張っただけ返ってくるブラジルに来て、本当に良かったと思います」
と龍千多さんは充実した毎日を過ごしている。
月刊ピンドラーマ2023年1月号
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