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セルジオ・セレリーセ クラッキ列伝 第136回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2021年2月号

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#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年2月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

 サッカー王国、ブラジルに負けない伝統と歴史を持つイタリア。そんな長靴型の形をした国のサッカーリーグは「セリエA(アー)」の愛称で親しまれ、世界中のクラッキを引き寄せてきた。

 ブラジル人に目を向けても1982年スペイン大会で、黄金の中盤を形成したジーコ、ファウカン、ソークラテス、トニーニョ・セレーゾの4人全てがセリエAでプレーし、カレッカもナポリで英雄に昇華した。そして近年に目を向けてもロナウドやカカーらがイタリアのサポーターを魅了した。

 そんなイタリアのサッカー界で、燦然と輝く記録を残したアタッカーがいる。セルジオ・セレリーセ。1960年代から70年代にかけて、カルチョ(イタリア語でサッカー)の国で名門を渡り歩いた点取り屋である。

 セリエAにおけるブラジル人ストライカーとしては歴代2位となる102得点。この数字がいかに優れているものであるかはアドリアーノ(77得点)、カカー(同)、カレッカ(73得点)、ロナウド(58得点)の記録を見れば明らかだ。

 イタリアでは「エル・グリンゴ(よそ者)」の愛称で親しまれたセルジオは外国人選手として唯一無二の記録を誇っている。セリエAでは実に6つのクラブを渡り歩いたが、外国人選手として最も多くのクラブに所属した男としてその名を刻み込んでいるのである。

 1941年5月生まれのセルジオは、サンパウロ市に生を受けた。父はイタリアのロンバルディア州出身で、母はトスカーナ州にルーツを持っていた。つまりイタリア系のブラジル人だったのだ。ボールを相手ゴールに蹴り込む才能に加えて、イタリア人の血を受け継ぐことが、後にセルジオの人生を大きく変えていく。

 ナシオナウやパウメイラスでもプレーしたセルジオがポルトゥゲーザ・サンチスタでプレーしていた1960年、当時19歳のセルジオはイタリアのカルチョ・レッコ1912に移籍する。当時のイタリアサッカー界は、イタリアにルーツを持つ外国人選手しかプレーを許されていなかったが、セルジオの体を流れていたのはイタリアの血。父祖の国に導かれるように、彼は長靴型の国の土を踏む。

 近年は3部や4部に低迷するレッコではあるがセルジオが移籍した当時はセリエAをカテゴリーとしていた。しかし、セルジオは最初の2シーズンでわずかに2得点。2部落ちからチームを救うことが出来なかったが1964-65シーズンには得点王にも輝くのだ。

 その後はボローニャやナポリ、フィオレンティーナといった名門でもゴールを量産。ブラジル代表にこそ縁はなかったが、セルジオの実力は折り紙つきだった。

 イタリアでの登録名はイタリア風に「セルジオ・セレリッチ」としていたセルジオだが1978年にはサンパウロ州の中堅、フェロヴィアーリアに移籍。この歳限りでスパイクを脱ぐと、指導者の道に足を踏み入れた。選手としては母国で無名に近かったセルジオだがパウメイラスやサントスでも指揮を執っている。

 「監督は非常に難しいものだ。何故なら、勝利に対しての重圧は選手の時以上に大きくなる」

 現役時代とは対照的に、監督としては決して大成しなかったセルジオだが、選手を見る確かな目を持っていた。ジュアリィやエヴァイールらイタリアで活躍した選手は、彼が移籍を後押ししたものだった。

 母国よりも、カルチョの国で名を高めた名ストライカーは、サッカー界から遠ざかっているが未だにイタリアの地で愛されている。


月刊ピンドラーマ2021年2月号
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下薗昌記氏の著書
「ラストピース J2降格から三冠達成を果たしたガンバ大阪の軌跡」

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