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ルイス・ファビアーノ クラッキ列伝 第147回 下薗昌記

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#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2022年1月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 いとも容易く相手ゴールをこじ開けるかと思いきや、審判や相手選手に噛みつき、論争の的にーー。ブラジルのサッカー界では、数々の悪童たちがストライカーというポジションで輝きを放ってきた。

 すっかり名監督の顔を見せているレナト・ガウショや国会議員としてスーツ姿が似合うロマーリオ、そして解説者として活躍するエジムンドらは、いずれも一癖も二癖もある点取り屋だった。

 そんな系譜に名を連ねる一人のストライカーが未だにコロナ禍が収まりを見せない2021年12月、静かにスパイクを脱いだ。

 人は彼をルイス・ファビアーノと呼ぶ。

「この時が来た。この4年間、僕は愛するサッカーをプレーするため自分の体と戦ってきた。しかし、この戦いに僕は勝てなかった」

 自身のインスタグラムで引退を告げたルイス・ファビアーノは2017年にプレーしたヴァスコ・ダ・ガマで負傷。以来、ピッチに立つことを目標にしてきたが、41歳の体はもはやプロ選手として限界だった。

 1980年、カンピーナス市に生まれた幼きルイスは、地元の名門ポンテ・プレッタの下部組織で育ち、プロデビュー。輝かしいキャリアをスタートさせたが、引退発表からわずか2日後、原点でもあるポンテ・プレッタのコーディネーターとして第二のサッカー人生をスタートさせるのだ。

 ポンテ・プレッタに熱を上げる一家で育ち、とりわけ祖父は幼いルイスを連れて、グアラニーとのダービーマッチに足を運ぶほどの熱狂的なサポーターだったという。

 もっとも、ルイス・ファビアーノが最も輝いた場所といえばやはり、2001年から所属したサンパウロである。のちにブラジル代表でも名コンビを組むカカーとの呼吸はピッタリで、サンパウロでゴールを量産。通算212ゴールはクラブ歴代3位という数字である。

 左右両足の高精度のシュートに加えて、ヘディングなど多彩なゴールパターンを持つルイス・ファビアーノだったが、気性の荒さも際立っていた。

 2003年のコパ・スダメリカーナ準決勝の一幕だ。リーベル・プレートとの一戦は乱闘騒ぎになったが、ルイス・ファビアーノはジャンピングボレーならぬ、空手キックさながらの一撃を相手の背中に見舞ったが、PK戦の末に敗れた試合後「PKを蹴るより、乱闘で味方を助けるほうがいい」と言い放った。

 サンパウロから欧州に羽ばたき2004年にはポルトでトヨタカップ(現クラブワールドカップ)優勝を果たし、セビージャでも数々のタイトルに貢献。そんな生粋の点取り屋は、2003年から時折ブラジル代表にも招集されていたが、2006年のワールドカップドイツ大会後、ロナウドが代表から遠ざかると、背番号9を託されたのがルイス・ファビアーノだった。

 ドゥンガ率いるセレソンでは徐々にエースとしての地位を確立。2009年のコンフェデレーションズカップでブラジルを優勝に導き、得点王に輝くと、2010年のワールドカップ南アフリカ大会ではカカーとのコンビでチームは躍進。準々決勝のオランダ戦も優位に試合を進めながらフェリペ・メロの稚拙な退場もあって1対2の逆転負けを喫した。

「キャリアで2番目に悲しい出来事」と彼は後に振り返ったが、輝かしいその履歴書に「ワールドカップ優勝」の文字は記せずじまいだった。

「僕はここの下部組織でスタートし、下部組織の重要性も分かっている。だから若い選手たちに僕が歩んできた23年の軌跡を示したいんだ」

 キャリア通算773試合で計404ゴール。生粋のゴールマシーンは、サッカー人生の原点で新たなスタートを切った。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

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