バタタ生産で成功した井上茂則(いのうえ・しげのり)さん 移民の肖像 松本浩治
#移民の肖像
#月刊ピンドラーマ 2022年7月号
#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文
バタタ(ジャガイモ)生産で1970年代からセラード地帯に進出し、現在は次男に農業を継いでもらいながら、自身はサンパウロ州セザリオ・ランジェ市でピッタイヤ(ドラゴンフルーツ)を趣味で栽培するなど夫婦で悠々自適の生活を送っている井上茂則さん(80歳、愛媛県出身)。篤農家としての秘訣を聞くと、「何事も信念を持ってやること。これをするんだと時間をかけて行うことが大切で、慌てると必ず失敗する」との持論が返ってきた。
井上さんは1961年、19歳の時にコチア青年2次10回生として「あるぜんちな丸」でブラジルに渡り、サンパウロ州イタチーバ市のパトロン田村武馬(たけま)氏(故人)の元で8年間の義務農年を果たした。
67年に人栄(ひとえ)夫人(77歳、石川県出身、旧姓・江川)と結婚し、69年に独立したことを機会に、現在のセザリオ・ランジェ市に転住。コチア産業組合員となり、バタタ生産を中心に、トウモロコシやフェイジョン等も栽培してきた。
また、70年代にはセラード地帯に進出し、ミナス・ジェライス州サンゴタルド市の広大な土地でバタタを生産。酸性土壌を改良しながら大型機械および灌漑設備導入によるバタタ生産を中心に、トウモロコシやフェイジョン(豆)などの栽培を実践してきた。天候に左右されるリスクの高い大型農業を継続する中で近代的な情報設備を整え、販売ルートを確立してきたほか、植え付け時期と地域を分散させるなど綿密な計画によって事業に取り組み、地域活性化とブラジル農業界の発展に寄与。後進の育成にも尽力してきた。さらに、一時はバイア州バレイラスにも土地を購入(現在は売却)し、生産規模を拡大してきた。
コチア産業組合員だった80年代には、バタタ部門で上位5番以内に入る優良生産者として何度も表彰されている。80年~90年代にかけては、米系大手ハンバーガー・チェーン店のマクドナルドと契約を結び、バタタ・フリッタ(フライド・ポテト)用のバタタを安定供給するなど、大ファゼンデイロ(農場主)としての地位を確立していった。
その後、コチア産業組合中央会解散(94年9月)翌年の95年に「タツイ・バタタ生産者組合」を発足させ、99年までの4年間、組合長として新しい組合を牽引してきた。また、「セザリオ・ランジェ農村協会」会長(98年~2001年)、「タツイ文化協会」会長(1982年と92年にそれぞれ1期2年)のほか、「ブラジル愛媛県人会」会長(2011年~13年)などを歴任。さらに、サンパウロ日伯援護協会(援協)には1984年に入会し、監事を経て現在も理事を務めるほか、サンミゲル・アルカンジョ病院の運営委員としても携わっている。そのほか、セザリオ・ランジェ名誉市民章(1990年5月)、タツイ名誉市民章(98年10月)も受章している。
現在、サンゴタルド市での農業生産活動は次男の英二(えいじ)さん(50歳、2世)が引き継いでいる。バタタ生産ゆえの借地ながら、バタタを中心にトウモロコシ、フェイジョン、ニンニクなどを生産し、年間植え付け面積は500ヘクタール、約110トンに及ぶ生産能力を誇っている。
バタテイロ(ジャガイモ生産者)と言えば、ひところはサンパウロ市ジャバクアラ区にあった料亭「青柳(あおやぎ)」にバタタを満載にしたトラックごと飲みに行き、豪遊の限りを尽くしたという話は有名だ。しかし、井上さんはそういった豪遊などはせず、コツコツと真面目に働き、財産を蓄えたことで現在の篤農家としての地位を築いてきた。
一方、援協の高齢者施設には自分の農場で生産したバタタをはじめとする野菜類を寄付するなど、日系社会に対する恩返しの気持ちも忘れてはいない。
生活が落ち着いた井上さんは10年ほど前から、人栄夫人とともに「趣味でピッタイヤを栽培している」というが、生産物はサンパウロ市のCEAGESP(サンパウロ州食糧配給センター)に卸しているほどだ。また、栄人夫人もヘチマを加工して化粧品を作るなど、夫婦ともに趣味の範囲を超えた作業を今も現役で続けている。
(2022年取材)
月刊ピンドラーマ2022年7月号
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