エウレル・エリアス・デ・カルヴァーリョ クラッキ列伝 第143回 下薗昌記 2021年9月号
#クラッキ列伝
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#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文
ミナス・ジェライス州の二強といえば、言わずと知れたアトレチコ・ミネイロとクルゼイロ。しかし、同じベロ・オリゾンテを本拠とするアメリカもまた、確かなクラッキを輩出していた。
ピッチ内を疾風の如く駆けたストライカーがいた。人は彼のことを「フィーリョ・ド・ヴェント(風の子)」と呼ぶ。エウレル・エリアス・デ・カルヴァーリョのことだ。
ベロ・オリゾンテから180キロ離れたフェリシランジアで生まれたエウレルはヴェンダ・ノヴァという小さなクラブでその才能を磨いていた。
1930年創設の歴史を持つヴェンダ・ノヴァだが、全国レベルでは無名。ただ、レイナウドやパリーニャ、フレッジらはこのクラブを踏み台にビッグクラブに羽ばたき、そしてブラジル代表にたどり着いているのである。
ミナス・ジェライス州における隠れた登竜門的クラブでプレーしたエウレルがアメリカに引き抜かれたのはまだ下部組織に所属していた16歳当時のことである。
スパイクを与える代わりにアメリカに移籍した、というのが定説だが、エウレルの述懐はこうだ。
「アメリカの監督がやってきて、5人の選手をチョイスした。その代わりに、アメリカはヴェンダ・ノヴァの寮にソファーマットやスパイクなどを提供してくれたんだ」
1987年にアメリカにやってきたエウレルは1990年に一度はトップチームに昇格するもの、その後規律に問題があり、再び下部組織での出直しを強いられた。
1993年にミナス・ジェライス州選手権でブレークしたエウレルだったが「風の子」としての名付け親は、かの著名な司会者ミウトン・ネヴェスである。若き日の彼もまた、ベロ・オリゾンテのラジオ番組で働いていたのだ。
1994年にはサンパウロに移籍し、ミューレルとコンビを組んだ風の子だったが、様々な名門を転々とした後2000年から2001年まではヴァスコ・ダ・ガマでプレー。相棒はロマーリオだったが、ルイス・フェリペ・スコラーリが率い、南米予選で苦戦していた当時のブラジル代表でもプレー。貴重なゴールを決めていたことから、本大会行きも有力視されていたが、スコラーリが読み上げた日韓ワールドカップのブラジル代表メンバーにその名はなかった。
「悲しみは本当に大きかった。すごく泣いたよ」。
その年、エウレルがアイドルと公言するジーコがかつてプレーした鹿島アントラーズ移籍も経験した。
名門を渡り歩いたスピードスターがキャリア最後の舞台として選んだのはプロ生活の原点でもあったアメリカだ。2008年にはアメリカがミナス・ジェライス州選手権1部昇格に貢献。2011年にスパイクを脱いだ風の子だったが、第二の人生で選んだのは指導者としての道である。
現役時代はブラジルと日本でしかプレー経験がないエウレルだが、スペインのバレンシア州にあるサフォル・クラブで監督を務めている。
下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。
月刊ピンドラーマ2021年9月号
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