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ヴィンキ クラッキ列伝 第146回 下薗昌記 2021年12月号

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#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年12月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 2021年8月、横浜国際総合競技場で行われた東京五輪男子サッカー決勝でブラジルは2度目の金メダルを獲得した。

 5年前のリオデジャネイロ五輪ではネイマールが悲願だったブラジル初の金メダルに感涙。サッカー王国は過去にも五輪に好チームを送り込んできたが、数多くのクラッキたちが涙を飲んできた。

 べベット、マルセロ、チアゴ・シウヴァら6人のブラジル人選手だけが王国のサッカー史において五輪で2度のメダルを手にしてきた男だが、その中の一人がルイス・カルロス・ヴィンキである。

 ヴィンキは、1985年にブラジル代表に初招集。1993年まで何度かカナリアイエローのユニフォームを身に纏ってきた名手だったが、ワールドカップ出場には縁がない不運なサッカー人生を送った。

 1963年、リオ・グランデ・ド・スウ州のポルタンで生まれたヴィンキはインテルナシオナウの下部組織で育ち、プロデビューを飾った。1984年のロサンゼルス五輪で銀メダルを手にし、1988年のソウル五輪でも再び金メダルに手が届かなかったヴィンキではあるが、その実力の確かさを物語るのが、ソウル五輪当時のエピソードである。

 レギュラークラスに名を連ねたのはロマーリオやベベット、タファレウ、ジョルジーニョら6年後のワールドカップアメリカ大会でブラジルを「テトラ(4度目)」に導く名手たち。

 そして右SBだったヴィンキも当然ながらレギュラーだったが、本来は右SBのジョルジーニョが左SBを務めざるを得ないほどの実力者だったのだ。

「ヨーロッパでプレーすること、そしてワールドカップの舞台に立つことは僕の夢だった。その可能性はあったんだけどね……」

 ヴィンキの言葉に嘘はない。

 メキシコ大会を翌年に控えた1985年には当時の指揮官、エヴァリスト・デ・マセードに期待をかけられていたもののテレ・サンターナの就任後、構想から外れメキシコ行きを逃す。そして1988年のソウル五輪後、イタリア大会出場を目指すも、インテルナシオナウの一員として出場していたコパ・リベルタドーレスで負傷し、イタリア行きも夢に終わるのだ。

 1993年のコパ・アメリカにも出場。1991年から1993年までブラジル代表に招集される機会も多かったヴィンキは当時、ブラジル屈指の右SBであり続けた。

 ヴァスコ・ダ・ガマでは1989年のブラジル全国選手権優勝を決めるアシストも記録。クラブ史にその名を刻んでいるヴィンキは、1994年のワールドカップアメリカ大会で総監督を務めたザガロとも師弟関係にあったが、ザガロと監督のパレイラはジョルジーニョの控えとしてヴィンキではなく若き日のカフーをチョイス。2度の五輪を経験しながらも、ヴィンキの履歴書に、ワールドカップ出場歴は刻み込まれることはなかった。

 ビッグクラブを渡り歩き1996年にスパイクを脱いだ名手は1998年から監督として様々なクラブを率いるが、その大半が地方の中小クラブだった。

  兄セルジオもグレミオなどでプレーしたプロ選手で、セルジオの二人の息子もまた王国でサッカー選手として生きることを選択。文字通りのサッカー一家であるヴィンキ家だが、選手として最も成功したヴィンキは、監督としてまだ夢を果たせていない。

「インテルナシオナウでいつか監督をしてみたい」

 58歳の挑戦は、まだ終わらない。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

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