ロンドリーナ西本願寺元婦人会長の土井静枝(どい・しずえ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2021年3月号
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文
ロンドリーナ西本願寺元婦人会長の土井静枝(どい・しずえ)さん
パラナ州ロンドリーナ市で、西本願寺の婦人会長を約30年間にわたって務めていた土井静枝さん(83、埼玉県出身)。「特に、何かをしてきたわけでもありません」と淡々と語るが、周りの信望は厚い。
父方の川口家は、先祖代々からの薬剤師として知られ、父・貞次郎(さだじろう)さんも薬局を経営していた。群馬県高崎市に居た貞次郎さんの姉の提案により、ブラジルに渡ることになった。姉の夫を家長として、貞次郎さん夫妻らと構成家族を作り、川口家族は1933年11月、「ぶえのすあいれす丸」で神戸港を出航している。
「神戸の収容所では、『行け行け同胞』の歌を歌った覚えがある」という静枝さんは、当時9歳。船内では、現在の上皇ご生誕の祝いがあり、「大きなフェスタ(パーティー)をしたことと、ブラジルに着いたことだけは今も覚えています」と当時を振り返る。
同船者6家族で、サンパウロ州ノロエステ線のプロミッソン(Promissão)とペナーポリス(Penápolis)の間にあるアバニャンダーバ(Avanhandava)の「ボア・ベンツーラ(Boa Ventura)」と呼ばれる、日本人がパトロンだった耕地に入植。静枝さんは、監督官の妹からポルトガル語を教わったという。
半年して同耕地を出て、子供たちの教育面も考慮した両親は、日本人の多い場所を求めてフェルナンジアス(Fernão Dias)の日系移住地に転住した。しかし、同地に日本語学校はなく、伯父は隣の植民地で日本語学校の教師を務めた。
「今から思えば、母親は大変だったと思います。日本では薬局勤めでしたが、ブラジルに来てからは自分で水を汲んだり、環境がガラッと変わりましたから」
翌年、フェルナンジアスの町に出て、当時盛んだった養鶏を始めたが、第2次世界大戦が始まった41年に、バウルー(Bauru)へと移った。
年頃となっていた静枝さんは両親からの提案もあり、花嫁修業を兼ねて裁縫を習い、「橋本」という日本人の世話で住み込みとしてマリリア(Marília)やパラナ州北部のロンドリーナ(Londrina)に出たりしていた。
45年10月、ロンドリーナで知り合った土井正敏(まさとし)さん(84、佐賀県出身)と結婚。静枝さんはバウルーに家族を残し、ロンドリーナに嫁いだ。正敏さんは当時、ロンドリーナ市内のセントロ区にあった最大の商店「フガンチ」に勤務し、50年間勤め上げた。
「バカが付くぐらいの真面目な人です」と静枝さん。夫の安定した経済力にも支えられ、2男2女の子供をもうけた。
義父が同地の西本願寺創設の発起人であったことや、義母が日本語教師の手伝いを行う同寺関連の「母の会」に入っていたこともあり、静枝さんも入会。「子供の教育は幼稚園の頃が一番大切」と、寺の日本語学校に入れさせた。
その頃から静枝さんは、仏教婦人会にも力を注ぐようになり、4年に1回各国で開催される世界大会には、すべて出席してきた。
「世界中に友人を持つことができて、幸せに思っています。(婦人部長を)これだけ長い間やってくることができたのは、会の皆さんや家族、友人の協力の陰です」と静枝さんは感謝の意を示しながら、晩年も同婦人会に通う毎日を続けていた。
(2007年12月取材、年齢は当時のもの)
月刊ピンドラーマ2021年3月号
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