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マルセロ・ラモス  クラッキ列伝 第149回 下薗昌記

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#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2022年3月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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「南十字星」の名をクラブ名に抱く名門クルゼイロ。過去、2度の南米王者の栄冠に輝いたミナス・ジェライス州の名門は、2019年にブラジル全国選手権2部に降格。2020年と2021年は2部での戦いでも苦闘が続き、2022年も1部復帰を目標にせざるを得ないのが現状だ。

 そんなクルゼイロで16歳の時にプロデビューを飾ったロナウドが2021年末、4億レアルを支払い、クルゼイロの筆頭オーナーになったことでも話題を集めた。

 そんな「南十字星」が南米王者としてきらめきを放った1997年、エースとして南米制覇に貢献したアタッカーがいる。

「フレッシャ・アズーウ(青色の弓矢)」の愛称で知られたマルセロ・ラモスである。1973年、サウヴァドールに生を受けたマルセロは5人きょうだいの家庭で育ったが、貧しい家庭で育った彼の運命が変わったのはサウヴァドールで行われた13歳以下のサッカー大会でのひとコマだ。

 地元の名門バイーアの目に止まったマルセロはバイーアの下部組織で成長し、やがてプロデビュー。クラブ史上6番目の得点数をマークする名手としてバイーアでもその名を残しているマルセロだが1995年にクルゼイロに移籍。1996年にはコパ・ド・ブラジルの優勝に貢献するが、1996年にオランダの名門PSVに移籍が決定する。奇しくもクルゼイロからPSVに羽ばたき、バルセロナにステップアップしたロナウドの後釜として獲得されたのだ。

 一度はオランダの地で挑戦を始めたものの、1997年のコパ・リベルタドーレスの大会途中に、クルゼイロに復帰。チーム得点王となったマルセロの活躍もあってクルゼイロはクラブ史上2度目の南米王者に輝いた。

 クラブ史上6番目となる162得点をクルゼイロで叩き出したマルセロだが、サンパウロやパウメイラスなどブラジルの名門だけでなく、Jリーグの名古屋グランパスエイトやサンフレッチェ広島、コロンビアのアトレティコ・ナシオナルなどでもプレー。文字通りのボヘミアンだった彼だが、一つだけ拒んだクラブがある。

 それはクルゼイロの宿敵、アトレチコ・ミネイロである。クルゼイロとアトレチコ・ミネイロの双方で指揮を執ったレヴィー・クウピからの誘いだったが、マルセロは当時を振り返る。

「クルゼイロとのアイデンティティが、僕にアトレチコでのプレーを許さなかったんだ。多くの選手が二つのクラブでプレーしてきたことを知っている。彼らの決断はリスペクトするが、僕にとって正しい決断ではなかった。何故なら僕のクルゼイロへの愛は大きいからね」

 2003年にはブラジル全国選手権とミナス・ジェライス州選手権、コパ・ド・ブラジルの三冠を獲得。マルセロはクルゼイロで14個のタイトルを手にしてきたが、これはクラブ史上2番目に多いものである。

 2012年に現役を退くと、サッカー人生の原点でもあるバイーアの下部組織で指導者としてのキャリアをスタート。しかし、2022年1月、マルセロはバイーアを後にすることを発表している。

 いつの日か、クルゼイロで監督をしてみたいと公言しているマルセロはクルゼイロ通算360試合で162ゴール。ブラジルサッカー界の表舞台から遠ざかって久しい「南十字星」を監督として、再び輝かせるかもしれない。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


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