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マウリーニョ クラッキ列伝 第154回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2022年8月号

マウリーニョ

時代を問わず、ブラジルのスタジアムではサポーターが怒りを暴発させる試合がある。

1957年12月29日、サンパウロ市内の高級住宅街にあるパカエンブースタジアムが荒れた一幕は、ブラジルサッカー界で「瓶に塗れた昼下がり」として記憶されている。

ブラジル全国選手権がまだ開催されていなかった当時、サンパウロ州選手権はサンパウロ州内のビッグクラブにとって最も重要度が高い大会だったがサンパウロとコリンチャンスはいずれも勝てば優勝という立ち位置でこのビッグマッチに挑んだ。

2点を先制したサンパウロは1点を返されたが、試合を決定づけたのがマウリーニョだった。翌年のワールドカップスウェーデン大会でブラジルの初優勝を支えることになるGKのジウマールをドリブルでかわして、ゴールを決めたマウリーニョは、あろうことかジウマールの頭をはたいて挑発。冷静沈着なジウマールも怒りを露わにしただけでなく、コリンチャンスサポーターも瓶を投げ込むなどして試合は6分間中断。サンパウロが優勝を飾ったものの、後味の悪さが残った一戦となった。

1933年、サンパウロ州奥地の町、アララクアラで生を受けたマウリーニョは農家の息子として育ち、当初はサッカーでなく、靴磨きの少年としてアララクアラで有名な存在になる。

仕事と勉学に励む傍ら、徐々にサッカーに魅了された少年マウリーニョは、町にあったクラブ、パウリスタで技を磨くが、1948年、名門パウメイラスがパウリスタと対戦。若きマウリーニョはこの試合でハットトリックを達成するのだが、名門を相手にした大活躍に夜、眠れないほどの興奮を感じたという。

マウリーニョにプロ選手としての資質を感じた友人の勧めもあってコリンチャンスの下部組織のテストを受けるが不合格。ボールに触れる回数はわずかで練習を見守ったコリンチアーノから「小僧、お前のせいで練習が台無しだ」とヤジられる有様だったという。

もっとも、このコリンチアーノたちは数年後、この少年にタイトルの夢を絶たれるとは夢にも思っていないのだが……。

失意のマウリーニョはその後、パウリスタのチームメイトだったCBに誘われ、グアラニに練習生で参加。やがてプロ契約を勝ち取り、プロのキャリアを歩み始めるのだ。

細身ながら抜群のスピードを持っていた農家出身の青年は「フレッシャ(矢)」の愛称で知られたが、グアラニでの活躍がサンパウロでのプレーにつながっていく。

1954年のワールドカップのスイス大会にブラジル代表の一員として出場しながらもレギュラーは勝ち取れなかったマウリーニョ。ブラジル代表では14試合4得点と平凡な数字に終わっているが、サンパウロでは343試合に出場し、145ゴール。ウイングとして十分な数字を残している。

サンパウロを退団後はフルミネンセやアルゼンチンの名門、ボカ・ジュニオールスにも所属し、名門を渡り歩いたマウリーニョ。

靴磨きに明け暮れた少年は、名GKを怒り狂わせた男としてもブラジルのサッカー史にその名を刻んでいる。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2022年8月号
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