ディエゴ・マラドーナ ~クラッキ列伝 第135回~
#クラッキ列伝
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#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文
2020年11月25日、サッカー界の巨星が突然、この世を去った。
フォーリャ・デ・サンパウロは一面の大見出しで「ディエゴ・アルマンド・マラドーナ死去」と報じ、グローボは「最も人間らしい神」と見出しをつけた。
アルゼンチン代表では1990年のワールドカップイタリア大会でブラジルを絶望のどん底に突き落とし、王様ペレとはしばしば、「史上最高の選手」をテーマに比較されてきたマラドーナ。
拙稿「クラッキ列伝」はこれまで一貫してブラジル人選手をテーマに書き記してきたが、天に召されたーいや、天に帰ったのだと信じたいーアルゼンチンの大天才は国籍の枠組みを超えた存在である。
ブラジル人のジャーナリストがコメンテーターとして出演するスポーツ番組にマラドーナが着たアルゼンチン代表のユニフォームを着て出演し、敬意を示したかと思えば、グレミオを率いるレナト・ガウショもコパ・リベルタドーレスの一戦でマラドーナの名が刻まれたアルゼンチン代表のユニフォームを着て指揮。サッカー王国でも、その早すぎる死に様々な形で弔意が評されたのだ。
かつてペレがマラカナンの悲劇に涙する父親に対して、自らがブラジルを優勝させると誓った逸話が残っているが、幼きマラドーナもまた、口にした言葉を実現しているのだ。
「僕には二つの夢がある。ワールドカップに出場すること。そしてワールドカップで優勝することさ」
マラドーナは1960年、ブエノスアイレス州のラヌースで生を受けた。貧民街の真っ只中で育ったマラドーナだったが、サッカーの神は縮れっ毛の小柄な男児に飛びっきりの才能を与えていた。
15歳でアルヘンティノス・ジュニオルスの一員としてプロの世界に飛び込んだマラドーナが最初にワールドカップを戦ったのは1982年のスペイン大会だ。しかし、2次リーグで対戦したブラジルに1対3で敗れ、マラドーナはバチスタに腹蹴りを入れて退場処分。しかし、4年後、気まぐれな天才はかつてペレが王様の座を確かにしたアステカの地で、その王位を継承するのだ。
1986年のメキシコ大会はまさに「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのためのワールドカップ」だった。準々決勝のイングランド戦では「神の手」ゴールで先制点を奪い、その直後には伝説の5人抜き。フォークランド紛争で敗れたイングランドに対して見せた鮮烈な2得点によって母国で単なるサッカー選手を超えた存在へと昇華するのだ。
そして1990年のイタリア大会では決勝トーナメント1回戦でブラジルと対戦。8年前に若さを露呈した左利きの天才は、たったワンプレーでブラジルを沈めて見せた。
ブラジルに一方的に攻め立てられ、クロスバーやポストにシュートが当たり続け運だけで持ちこたえていたはずのアルゼンチンだったが、後半35分にマラドーナが輝きを見せる。
ハーフライン近くからドゥンガら4人をかわしてカニージャにラストパス。絶妙のお膳立てでブラジルに勝ち切ったがマラドーナは利き足ではない右足でDFの股を抜く必殺パスを繰り出したのだ。
イタリア大会では準優勝に終わり、自身にとって4度目となる1994年のアメリカ大会ではグループステージのナイジェリア戦で電光石火のパスワークからマラドーナがスーパーゴール。ゴール後、テレビカメラに向かって狂ったように吠えたてたアルゼンチンの背番号10は、直後にドーピングが判明し、大会から追放。破天荒なクラッキはワールドカップの大舞台に思わぬ形で別れを告げたが、その後もピッチ内外でマラドーナは奔放な生き様を見せつけた。
同じアルゼンチン出身の革命家チェ・ゲバラに傾倒し、キューバ革命を主導したフィデル・カストロとも親交が深かったマラドーナ。奇しくもマラドーナが天に召された11月25日は、4年前にカストロが死去した日と同じだった。
過去にはマラドーナと罵り合うこともあったペレだが訃報に際し「いつの日か、あの世で一緒にボールを蹴ることができることを楽しみにしている」とツイートした。
アディオス、マラドーナ。グラシアス、ディエゴ。芸術家であり、革命家でもあった異端児は神のもとへと帰って行った。
月刊ピンドラーマ2021年1月号
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