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コチア青年第1陣の黒木慧(くろき・けい)さん ~移民の肖像~

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#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文

黒木慧さん

 「コチア青年」第1陣(1次1回生)として1955年にブラジルに渡った黒木慧さん(86)は、ブラジル到着時にコチア産業組合を創設した故・下元健吉(しももと・けんきち)氏(高知県出身)から直接訓辞を受けた経験を持つ、残り少ないコチア青年の一人だ。サンパウロ州バルゼン・グランデに入植してから、65年以上が経った現在もなお、同地域で暮らしている。

 黒木さんは1934年10月に8人兄弟の次男として宮崎県日向(ひゅうが)市で生まれ、青年期には自身が主体となって農業生産活動を行っていた。しかし、第2次世界大戦後の食糧難の中、「米が滅多に食べられず、唐芋(からいも=サツマイモ)ばかり食べていた」時代、55年2月に父親を亡くし、地元の新聞記事を見て、コチア青年としてブラジルに行くことを決意した。

 黒木さんの記憶によると、コチア青年の申し込みは55年2月で、合格通知が同年4月ごろに届いたという。また、6月末頃に事前研修が約1週間あり、南部地域は宮崎県、北部地域は福島県でそれぞれ実施されたそうだ。黒木さんは地元宮崎県の高鍋(たかなべ)練習農場で事前研修を受けた際、下元氏の片腕で、当時、コチア産業組合理事長だった山下亀一(かめいち)氏がブラジルの生活や事前情報を話してくれたとし、そのことが「非常に助かった」ことを覚えている。さらに、ブラジル出発直前の10日間ほどは、兵庫県神戸市の移民収容所(現・海外移住と文化の交流センター)でも研修した。

 55年8月4日に神戸港を出航した「あめりか丸」には総勢800人が乗船し、そのうちの109人がコチア青年だった。同年9月15日にサントス港に到着した黒木さんたちを、当時のコチア産業組合移民課長だった山中弘(ひろし)氏が出迎え、コチア青年たちはバスに分乗して、その日のうちにサンパウロ市近郊モイニョ・ベーリョの宿舎へと移動。黒木さんは移動中、「サンパウロの街の灯りが強く、明るかった」ことを記憶している。また、その日は「寒い日」で、一行がモイニョ・ベーリョに到着したのは、すでに辺りが暗くなった夜だった。着いてすぐに腹ごしらえとなり、青年たちの到着を首を長くして待っていた下元氏は、「ネズミ色だったか、黒だったかのオーバーを着て」(黒木さん)、その日は「今日はもう遅いから。皆さんの顔だけを見に来た」と言い、翌日、改めて出直して青年たちへの訓辞を同地で行ったという。

 下元氏は翌日の訓辞で青年たちを歓迎しつつも、「日本から来た青年はアプレゲール(「戦後派」の意味で、戦前の物の考え方にとらわれずに行動した若い人を指す)の傾向があり、気の緩みがある。学校の学問の経験ではなく、実地の経験がモノをいう」と戒めた。また、同氏は一つの例として、昔、高知の殿様が、息子にオランダで医学を勉強させたエピソードを披露。その息子が船でオランダに渡った際、付き添いの者が息子の世話をし、数年間、異国で勉強して高知に帰ったら診療所を開設するように日本で進んだ医学を広めようと思っていたという。ところが、帰国の際に息子たちは思わぬ台風の被害に遭い、命は助かったものの、その影響でせっかく書きためた書類がすべて海に流された。オランダで勉強した書類を頼りにしていた息子に対して、その付き添いの者が「心配しなくていい。あなたがオランダで勉強して得た医学の知識も実習も、私が全部見てきました。自分がその知識を頭に入れているので、2人で協同して診療所を開けましょう」と諭したそうだ。下元氏は訓辞で、学問の知識そのものよりも、実地が役に立ったということを力説。さらに、コチア青年に対し、「(コチア青年制度が)成功するか否かは、君たちの頑張りにかかっている」と激励したという。その訓辞を聞いた黒木さんは当時、「えらい(たいそうな)説教だな」と率直に感じたが、現在も当時の訓辞は印象に残っているそうだ。

 黒木さんは、生前の下元氏と1対1で話したことはなかったが、同氏の印象について「やはり、初対面では顔付きからして恐いという思いがあったが、自分(下元氏)が言い出し始めたことには責任感が強かった」と振り返った。


月刊ピンドラーマ2021年1月号
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