第64回 実録小説『頼むから冷蔵庫を返してくれ』 カメロー万歳 白洲太郎 2021年7月号
#カメロー万歳
#月刊ピンドラーマ 2021年7月号 HPはこちら
#白洲太郎 (しらすたろう) 文
その日、白洲太郎は朝からそわそわしていた。なぜなら数週間前に通販ショップで購入した冷蔵庫がもうすぐ届くはずだからで、朝からその準備で大わらわだったのである。これまでに幾度となく通販でモノを買ってきた太郎であったが、届かなかったことなど一度もないし、トラブルに発展したケースも皆無であった。しかし冷蔵庫ほどの大物となると、話は変わってくる。小包とは違って大型のトラックでやってくるのだろうし、運ぶにしても大変な代物である。信頼できるサイトから信頼できるメーカーのモノを購入したため、不安要素はないはずであったが、何はともあれここはブラジル。予想もつかないトラブルに見舞われることなど日常茶飯事であるから、いっときも気を抜いてはならない。とはいえやはり、感慨深いものが胸の奥から突き上げてくる。
ついにオレも冷蔵庫のオーナーになるのか…。
太郎は自宅の裏庭から真っ青な空を眺め、しばし物思いにふけった。
太郎が今の家に住み始めてから10年以上が経つが、冷蔵庫は大家であり友人でもあるネイが無料で貸し出してくれていた。ガスコンロや電子レンジ、オーブン、テレビ、ベッドなどは自分で買い揃えたが、なぜか冷蔵庫だけは融通してくれ、そんな彼の好意に甘えるかたちでこの10年を過ごしてきたのである。
しかし無常の世の中である。今から8か月ほど前に、そろそろ冷蔵庫を返してくれないかと打診され、のらりくらりとカポエリスタのようにその催促をかわしてきた太郎であったが、1か月前、いつになく真剣な表情で訪ねてきた彼の顔を見るにつけ、『ああ、ついにこのときがきたか』と、さすがの太郎も観念をするしかなかった。ネイはゴリラのような身体つきをしてはいるものの、情緒は不安定であり、これ以上、彼をenrolar(ぐずぐずと自分のペースに巻き込んでいく)するわけにはいかない。とまあ、そういうわけで1か月以内に新しい冷蔵庫を買わなければいけなくなった太郎であったが、コレと目をつけていた機種は前からあり、それがどのような冷蔵庫なのかというと、冷凍室と冷蔵室が完全に別れている二層式タイプのモノである。これは食材管理を任されているちゃぎのたっての希望であり、ワンボックスタイプに比べるとやや値段は張るが、現場の声を無視するわけにはいかない。太郎は渋々了承したが、そんな彼にとっても冷蔵庫の購入にあたっては譲れないポイントがあった。せっかく新しいのを買うのなら、是非Frost Freeタイプのモノが欲しい。彼はそう決意を漲らせていたのである。Frost Free、詳しい仕組みはよく分からぬが、とにかく冷凍室に一切の霜がつかぬという驚異的な代物で、数年前から憧れていたタイプである。なんとなれば現在、大家から借りている冷蔵庫はワンボックスのなかに冷凍室が設けられている形式であり、1か月もしないうちに氷河のような霜が発生してしまうのである。その氷に押されるカタチで冷凍室のフタも壊れ、ますます霜がつきやすくなっているという有様で、この数年、多大なる不便を被っていたのであった。
しかし、そのような状況も今日で終わりを告げるはずである。新しい冷蔵庫が届けば食材管理も改善され、その勢いにのってしらす商店の経営も大幅に飛躍するかもしれぬ。少なくとも大家が目に涙を浮かべながら、『頼むから冷蔵庫を返してくれ』と夜中に訪ねてくることもなくなるだろう。
「それにしても遅いな…」
太郎は時計をチラリと見たが、まだ午前の10時を回ったばかりである。心配をするような時間帯ではないのだが、実際に店舗から購入するときとは違う不安が、通販には確実にある。まず『本当に届くのか?』というところから始まり、たとえ無事に届いたとしても、長距離トラックに何十時間も揺られてきているだけに、本体へのダメージも気になるところである。そればかりか、電圧の違う機種や、誤った型番のモノが送られてきた場合、返送するのも手間だ。
ではなぜそれほどのリスクを冒してまで通販で購入するのか?
実店舗なら自分の目で商品をチェックできるし、場合によってはその場で持ち帰ることも可能である。後から届けてもらうにしても、かかる時間はせいぜい数日といったところであろう。これだけ書くと、店舗での購入はメリットしかないのではないかと思わされるが、何事も完璧というのはあり得ない。都会の量販店などに行けば事情も違うのだろうが、太郎の住む田舎町に限っていえば、冷蔵庫などの大物家電の価格は通販のそれと比べると雲泥の差なのである。
例えば今回購入した二層式の冷蔵庫、容量でいえば310リットル程度のモノだが、地元で買えば2600レアルはする。ところが、通販での価格は約2000レアル。それも送料込みの価格なのである。その差600レアルといえば大金であり、届くのに多少の時間がかかったとしてもメリットの方が大きい。地域商店主の売上に貢献したいのは山々の太郎であったが、ここまでの価格差である。600レアルに目が眩んでしまった落ち武者風東洋人を誰が責めることができるだろう? 大物家電以外は地元で購入するから許してちょ。誰に言うでもなく、太郎はそうひとりごちたのであった。
「頼むから無事に届いてくれ」
トイレで用を足しながら、太郎は神にもすがる思いで頭を垂れていた。2000レアルもの買い物は、これまでのブラジル生活を振り返ってみてもそうそうあるものではない。届かなかったらどうしよう?という不安は拭いきれず、しかし最近の通販サイトはけっこうしっかりしてるし…などと、自らを励ます問答を繰り返しているうちに、家の前でトラックの停車する音が聞こえてきた。
一目散に駆け出した太郎であったが、あまりにも慌てていたためドアの角に足を強打し、目がくらむほどの痛みにもんどりをうちつつも、冷蔵庫のためなら死ねる。唇を噛み締めて立ち上がり、血をダラダラと流しながら車庫の門を開けると、眼前には運送屋と思しき大型トラックがあり、そのすぐ側で伝票らしき紙切れをもったにーちゃんが訝しげな表情で太郎を見すえていた。
トラックの後部では運転手らしき人物が荷物を整理している風であり、居ても立ってもいられぬ太郎がにーちゃんににじり寄ると、
「ちゃぎのさんのお宅? ここにサイン欲しいんだけど」
ぶっきらぼうに紙切れを差し出してきた。通販ショップのアカウントはちゃぎの名義なので、彼女宛に商品が送られてきたということなのだろう。大慌てでちゃぎのを呼び、サインをさせると、厳重に梱包された白い冷蔵庫が今まさに荷台から降ろされようとしているところであった。腰の悪そうな運転手が苦悶の表情を浮かべているのに気づいた太郎は、これはいかんとダッシュでかけ寄り、「オレに任せろ!」サムズアップで役目を引き受けると、えっさ、ほいさ! とばかりに先ほどのにーちゃんと一緒に冷蔵庫を運び始めたのである。門の前には犬のうんこが鎮座していたが、大事の前の小事、糞を避けることによって冷蔵庫の運搬に支障があってはいかんと無遠慮に踏みつけ、無我夢中で冷蔵庫を家の中に運び入れると、太郎とちゃぎのは小躍りをしながら新しい家族を抱きしめ、記念撮影などをしてその日の午後を過ごしたのであった。
ようやく肩の荷が降りた心境の太郎である。が、休む間もなく、次なる試練が彼に襲いかかろうとしていた。このときの太郎にそれを知る術などないが、その翌日、今度はこと切れるように洗濯機が動かなくなってしまったのであるーー。
白洲太郎(しらすたろう)
2009年から海外放浪スタート。
約50か国を放浪後、2011年、貯金が尽きたのでブラジルにて路上企業。
以後、カメローとしてブラジル中を行商して周っている。
yutanky@gmail.com
Instagram: taro_shirasu_brasil
YouTube: しらすたろう
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