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リカルジーニョ クラッキ列伝 第141回 下薗昌記 2021年7月号

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年7月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 前身のパレストラ・イタリアが創設されたのは1921年のこと。今年で百年の節目を迎えたクルゼイロは、王国のサッカー史を彩る数々の天才を生み出してきた。トスタンやジルセウ・ロペス、若き日のロナウドらが青色のユニフォームに身を包んできたが、長いその歴史の中で、この男ほどクルゼイロでタイトルを手にした男は他にいない。

 リカルド・アレシャンドレ・ドス・サントス。1976年生まれの彼は、リカルジーニョの登録名でその名をクラブ史に刻み込んできた。

 1976年生まれのリカルジーニョはクラブが生んだ生え抜きの逸材だった。ミナス・ジェライス州の小さな町、パッソスで生まれた少年は、およそその後クラッキに育つような体格ではなかったが、その細身の体にはミッドフィルダーで活躍するための全ての要素が詰め込まれていた。

 170センチ、60キロ。クルゼイロの下部組織に合格した十代の当時は試合を組み立てる司令塔タイプのプレーヤーだったが、当時の指導者はリカルジーニョを中盤の下がり目であるボランチにコンバートする。

 試合の流れを見抜く戦術眼の高さと、細身ではあるもののフィジカルコンタクトに耐えうる体の強さに光るものがあったからである。

 ポジショニングの良さと、泥臭いプレーを厭わない献身性、そして粘り強い守備――。現代サッカーではもはや当たり前のエッセンスを1990年代に持ち合わせていたリカルジーニョは1994年に出場機会を獲始めると19歳だった1995年には不動のレギュラーの座を手にしていた。

 下部組織時代は2002年のワールドカップ優勝メンバーでもあるベレッチやロナウドともプレー。「あの当時の僕らのチームは凄く強かった」と振り返るリカルジーニョだが、ボランチとしてのお手本はデビュー当時の同僚だったトニーニョ・セレーゾだった。

「セレーゾからはポジショニングとボール支配を教えられた。僕にとっての英雄だし、素晴らしい人だったよ。僕は彼を師匠と呼んだものさ。毎日、彼から何かを学んだんだ」。リカルジーニョの述懐である。

 クルゼイロの一員としては440試合に出場したが手にしたタイトルはクラブ史上最多となる15。ブラジル全国選手権こそ手が届かなかったもののその履歴書に刻んだ最高の栄冠は1997年のコパ・リベルタドーレスである。

 8年間、プレーしたクルゼイロに別れを告げ、細身のボランチが向かった新天地は地球の反対側の日本だった。2002年に柏レイソルに移籍し、その後は鹿島アントラーズでもプレー。怪我にも泣き、必ずしも本領を発揮したとは言い難い日々だったが、2007年クルゼイロに復帰し、キャプテンを務めるも、かつてのパフォーマンスを見せきれず、同年にコリンチャンスに移籍する。そして古傷でもある足首の痛みに悩んできたボランチは31歳の若さでスパイクを脱ぐことを決断するのだ。

 現役時代、ピッチ狭しと駆け巡った献身的なスタイルは引退後にも変わりはない。ただし、ビジネスの世界で、だ。ベロオリゾンテで展開するスーパーマーケットにサンダルを売る会社を営むかつてのクラッキは順調な第二の人生を歩んでいる。

 かつての古巣クルゼイロは、ブラジル全国選手権2部でも低迷。今や3部降格の危機に瀕しているが、リカルジーニョが手にしてきた栄冠にその輝きを失うことはない。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


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