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ペドリーニョ クラッキ列伝 第140回 下薗昌記 2021年6月号

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年6月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

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 タイトルには縁がなかったが未だにサッカー王国の民に古き良き時代のノスタルジーを感じさせる1982年ワールドカップスペイン大会のブラジル代表。

 ジーコ、ソークラテス、ファウカン、セレーゾらいわゆる「黄金のカルテット」に負けず劣らずの輝きを見せていた天才が左SBを託されていたジュニオールである。

 古くはニウトン・サントスに始まり、ブラジル代表は数々の天才的な左SBを輩出してきた。ジュニオール、ブランコ、ロベルト・カルロス、そして近年ではマルセロらがワールドカップで定位置を守ってきた。

 戦術的かつ体力的な交代も多い中盤や前線のポジションと異なり、DFラインに試合中、手が加えられるのは稀で、絶対的なレギュラーを脅かすのは至難の技である。

 ブラジル代表では実に111人が背番号10を託されてきたが、本来はSBだったジュニオールもその一人。マルチロールな才能を持つ「化け物」と左SBでポジションを争い、そして日陰の身に甘んじたSBがいた。

 テレ・サンターナが率いたスペイン大会で17番を託されたペドリーニョである。

 ブラジルの登録名ではありがちなペドリーニョだが、正式な名前はペドロ・ルイス・ヴィセンソッチ。パウメイラスとヴァスコ・ダ・ガマのオールドファンならば、彼の名は必ず覚えているはずだ。

 1957年、サント・アンドレーに生を受けたペドロは当時の名門の一つ、ポルトゥゲーザの下部組織入りするものの、十代で最初の挫折に直面する。

 ボールを扱う才能が欠けていたわけではない。細身の白人少年は、その体格の貧弱さを理由にチームを追われたのだ。

 しかし、捨てる神あれば、拾う神があるのがサッカー界。パウメイラスの下部組織で再び、ボールを蹴る機会を得たペドリーニョは1978年、若手の登竜門であるタッサ・サンパウロ・デ・ジュニオーレスで頭角を表すと、その年にトップチームでプロデビューを飾るのだ。

 スピードを生かした攻撃参加と高いテクニックを誇るペドリーニョはパウメイラスで最初の絶頂期を迎えるのだ。

 1979年には11万2千人の大観衆を飲み込んだマラカナンでジーコ擁するフラメンゴと対戦。パウメイラスは4対1で圧勝したが、ペドリーニョもフラメンギスタを歯ぎしりさせる1点を決めている。

 この年、プラカール誌が選出する年間ベストイレブン「ボーラ・ダ・プラッタ」に選ばれたペドリーニョだが、当時のパウメイラスの指揮官はのちにセレソンを率いるテレ・サンターナ。1981年からはヴァスコ・ダ・ガマに移籍していたペドリーニョではあったが、スペイン大会でメンバー入りしたのはある意味で必然だったのだ。

 ブラジル代表では16試合に出場したものの、スペイン大会での出場時間はゼロ。しかし3人の交代枠をフル活用する現代と異なり、当時は試合中にせいぜい1人入れ替えるのがやっとだった。

 フラメンゴのジュニオールとヴァスコ・ダ・ガマのペドリーニョ。スペイン大会直前にプラカール誌で二人は対談を行っている。

 当時、世界最高の選手の一人とさえ評価されたジュニオールは、
「ポジション争いのライバルが間近のリオサッカー界に来たことは最高だ」
と歓迎。一方のペドリーニョは、
「もしジュニオールがヘマをしたら、僕にプレーするチャンスが回ってくる」
と言い切ったが、そんな言葉が大言壮語に聞こえない実力の持ち主だったのは間違いない。

 1983年にはイタリアのカターニャに移籍。より攻撃的な前方のポジションでプレーし、1986年のワールドカップメキシコ大会でもメンバー入りを目指したペドリーニョだったが、テレ・サンターナは、そのリストにサント・アンドレー生まれのテクニシャンの名を書き込まなかった。

 世界最高のSBをライバルにした男は今、代理人として第二の人生を過ごしている。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2021年6月号
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