見出し画像

カルロス・ガマーラ(パラグアイ) クラッキ列伝 第178回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年9月号

カルロス・ガマーラ

ペレを筆頭に天才たちが綺羅星のごとく輝いた1970年、W杯のメキシコ大会。史上最高の呼び声高いブラジル代表を束ねたのが、キャプテンのカルロス・アウベルト・トーレス、その人だった。

ペレらも敬愛した「永遠のキャプテン」は2016年、この世を去ったがその名を受け継いだ名センターバックがブラジルのサッカー界で一時代を築いていた。

ただし、彼は隣国のパラグアイ生まれ。パラグアイのサッカー史上最高の選手として知られるカルロス・ガマーラである。

トーレスがメキシコの地で、黄金のトロフィーを掲げた時、まだガマーラは母のお腹の中にいた。

ガマーラの本名はカルロス・アルベルト・ガマーラ・パボン。彼の父は1971年に生まれた我が子に、ブラジルの英雄の名を与えたのだ。

二十数年後、彼がブラジルのみならず、南米でも屈指の名センターバックになるとは夢にも思わず……。

首都アスンシオンからわずか30キロ離れた町、イパカライ市で生まれたガマーラは名門セロ・ポルテーニョの下部組織でプレーし、1991年にプロデビュー。

ブラジルでのプレーは1995年に移籍したインテルナシオナウが最初だが、そのプレーは当時から際立っていた。178センチと上背には恵まれていなかったものの、読みの良さとフェアなプレーでゴール前に君臨。当時、インテルナシオナウの成績は良くなかったにも関わらず「パラグアイ生まれの騎士」は1995年と1996年にプラカール誌が認定するベストイレブンに選出されていた。

1997年に移籍したポルトガルのベンフィカでは成功したとは言い難いガマーラだったが、コリンチャンスに移籍した1998年からそのキャリアは黄金期を迎えていく。1998年のW杯フランス大会ではオールスターチームにも選出。決勝トーナメント1回戦でその後優勝するフランスに0対1で敗れたものの、大会の4試合を通じてガマーラが犯したファウルはゼロ。

紛れもなく大会最高のセンターバックの一人だったのだ。

同年のブラジル全国選手権ではコリンチャンスの優勝に貢献し、再びベストイレブンに選出されている。

W杯にはフランス大会以降、3大会連続で出場。自身最後の出場となった2006年のドイツ大会ではイングランド相手に開始早々の3分にオウンゴールを献上。これはW杯史上最速のオウンゴールとして今でも記録に残っているが、長いキャリアを通じて5度、ウルグアイのエル・パイース紙が選出する南米ベストイレブンに名を連ねたことが、ガマーラの偉大さを物語るのだ。

パラグアイ代表として110試合に出場したガマーラだが、キャリアで最高の瞬間は2004年のアテネ五輪決勝戦。「アルゼンチン戦は、非常にタフで難しい試合だった」とガマーラは振り返ったが0対1で敗れ、銀メダルに。

キャプテンとして栄冠を手にすることはできなかったが、2005年にはパウメイラスの一員としてこの年に創設されたブラジルサッカー連盟とグローボ局が選出するベストイレブンに選ばれている。

母国の名門オリンピアでのプレーを最後に2007年にスパイクを脱いだガマーラだが、「カルロス・アウベルト・トーレス」の名を受け継いだ男に相応しいクリーンなプレーとキャプテンシーで、サッカー史に「ガマーラ」の名を刻み込んだ。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年9月号表紙

#サッカー #海外生活 #海外 #ブラジル #サンパウロ 
#月刊ピンドラーマ #ピンドラーマ #下薗昌記 #クラッキ列伝 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?