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アマゾンで写真店を経営した滝田操(たきた・みさお)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2021年5月号

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#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文

滝田操さん[1]

「(パラー州の)トメアスーでピメンタ(コショウ)を作れば、土地はタダでもらえるし、金も貯まる」—。

 福島県に住んでいた滝田家族は、近所に住む日本人からブラジルに行くという話を聞き及び、自分たちも一緒にブラジルに渡ることを決意。1955年9月27日に神戸港を出航し、同年10月30日に北伯(ほくはく)のベレンに到着した。

 家長の余慶(よけい)さん(故人)は当初、レントゲン技師としてトメアスーで働くことになっており、日本から事前にレントゲン機器を送っていた。しかし、渡伯後いつまで経っても肝心のレントゲン機器は届かず、生活のために仕方なくトメアスーで写真店を開くことにしたという。

 当時、6歳を筆頭に3歳と1歳の3人の子供がいた妻の操さん(82)は、日本人のパトロンの下でピメンタ栽培中心の農業活動を続けながらも、次第に夫の写真店の手伝いも行うようになっていた。

 元々、余慶さんは東京で写真の技術を習得した経験があり、第2次世界大戦後に復員してからは新聞社で写真を扱ったり、生活協同組合で映画の上映係りを行うなど、写真・映像技術に興味を持っていた。滝田家が渡伯した55年当時、ピメンタ景気で沸くトメアスーには金持ちも多く、催し事があると余慶さんが写真を撮り、販売していた。日本から写真の引き伸ばし機や修正用の道具を持って来ていたことが、農業活動とともに滝田家の生活を支えた。しかし、滝田家の生活は苦しく、当時は電気もない暮らしぶり。写真の密着作業には、日中は太陽光を利用し、夜は電球の代わりにランプの光を使っていたという。

 渡伯当初は「こんな所に子供たちを連れてきても教育はできない」と悩んだ操さん。「子供が土に絵を描いているのを見ると、クレヨンも買ってやれない自分の情けなさに涙がこぼれましたよ」と当時を振り返る。その子供たちも高校生ぐらいに成長すると、勉学を行うためには都市部のベレン市に出る必要があった。65年に長女をはじめ、子供たち全員がベレンで下宿生活を始めるようになったが、操さんは夫とともに生計を立てるために、トメアスーで継続してピメンタ栽培に従事せざるを得なかった。

 転機が訪れたのは73年のこと。操さんが植えていたピメンタに病気が入り、一晩で全滅。当時、20町歩の土地に1万本のピメンタを植えていた操さんは、体力の衰えを感じていた。ピメンタへの思いが人一倍強かった操さんだが、トメアスー全体のピメンタ栽培はすでに全盛期を過ぎており、夫とともに子供たちのいるベレンに転住することを決めた。

 その頃、余慶さんに運気が回ってきた。当時、白黒写真からカラー写真に移行しだした時期で、余慶さんもカラー写真技術を身に付けたいと考えていた。そうした時、日本の富士フイルムで技術研修生の受け入れがあった。早速、応募したところ、採用通知が来て、余慶さんは56歳で初めて日本に一時帰国することができた。

 研修を終えてベレンに戻った余慶さんは早速、日本の技術を駆使し、ベレンでは初めてのカラー写真の取り扱い店として、連日、多くの注文で賑わった。

「月曜日には一日に300本ほどのフィルム現像の注文がありました。その頃は今と違って1枚1枚手で焼いていましたから、夜中の3時くらいまで働いていました」(操さん)

 ベレンで初めてのカラー写真技術が、滝田家の生活を大きく変えたのだった。

 その後、写真店は93年に次女が引き継ぎ、96年には自動式のミニラボ機械を導入するなど、さらに店舗を発展させた。

 ベレンに転住してからの操さんは結局、89年までの16年間を夫とともに写真業に費やした。

「写真の仕事を辞めたくはなかったのですが、子供たちが集まって話し合い、『もういい加減、自分の好きなことをしたらいい』と言ってくれました。年寄りが頑張り過ぎると、若い者が伸びない。残念でしたけど、辞めることにしました。もしあの時、辞めていなかったら、今でも(写真の)仕事をしていますよ」
と操さんは笑顔を見せていた。

(2001年6月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/


月刊ピンドラーマ2021年5月号
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