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ルイジーニョ・レモス クラッキ列伝 第151回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2022年5月号

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2022年5月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

かつて世界で最も多くのサポーターを飲み込み、数々の伝説的な試合の舞台となってきたマラカナンスタジアム。ブラジルサッカー界の聖地で、最もゴールを決めた男はフラメンゴの英雄ジーコ(Zico)、そして2位の記録を誇るのがロベルト・ジナミッチ(Roberto Dinamite)である。

そんなブラジルサッカー界の天才に続いて、マラカナン史上3番目に多いゴール数を決めているのがルイジーニョ・レモス(Luisinho Lemos)である。

レモス家に生まれた男たちはサッカーの才能、とりわけ相手チームのゴールネットを揺らす点取り屋としての才能を、天から与えられていた。

パウメイラス史上屈指の名ストライカーだったセーザル(César Maluco)とフラメンゴやボタフォゴでも活躍したカイオ(Caio)を兄に持つルイジーニョは1952年、リオデジャネイロに隣接するニテロイで生まれた。

速さと強さ、そしていかなる体勢であろうとシュートを相手ゴールに突き刺すことにこだわってきたルイジーニョは今やすっかり古豪となったアメリカでクラブ史上最も得点を奪っている英雄でもあった。

「どんな形のシュートだろうと、俺は気にしない。踵に当たって入ってもいいんだ。大事なのはゴールネットを揺らすことさ」

「悪魔」の愛称を持つアメリカが、まだリオデジャネイロのサッカー界で敬意を持たれていた当時、赤いユニフォームをまとって311得点を決めたルイジーニョ。2018年9月18日、マラカナンのピッチ上でアメリカのクラブ114回目の誕生日を祝うイベントに姿を現したルイジーニョの隣には、彼に次いでゴールを決めているエドゥ・アントゥネス(Edu Antunes)の姿もあった。言わずと知れたジーコの実兄である。

「このマラカナンに来たのは初めてだ。だけど昔の光景が懐かしいね」

ルイジーニョは、2014年のワールドカップブラジル大会に合わせて新たに生まれ変わったマラカナンに初めて足を踏み入れたという。

ルイジーニョがマラカナンでゴールを量産した当時、庶民のための席だったジェラウと呼ばれる空間こそが、マラカナンをマラカナンたらしめていた。

レモス家のストライカー3人はいずれもフラメンゴで背番号9を背負った共通項も持ち合わせるが、ルイジーニョは17万6000人が足を運んだフラメンゴ対ヴァスコ・ダ・ガマでもゴールをゲット。フラメンギスタからは喝采を、ヴァスカイーノからはブーイングを浴びていた。

1974年にプラカール誌が選出する「ボーラ・ダ・プラッタ(ベストイレブン)」にジーコらともに選出。ブラジル国内の名門だけでなく晩年にはカタールのアルサッドなどでもプレーし、1994年に現役を引退する。

引退後、かつてプロデビューを飾ったアメリカで監督としての新たなキャリアをスタートさせ、中小の様々なクラブを率いたかつての名ストライカーが2018年、再びアメリカで指揮を執る。そして、2019年6月2日、ルイジーニョはサッカーキャリアと同時に、自らの人生にも突然、その幕を下ろすのだ。

リオデジャネイロ州選手権の2部の試合中、心臓発作で倒れたルイジーニョは、帰らぬ人となった。

アメリカのクラブアンセムはこんな一節で始まっている。

<応援せよ、応援せよ、応援せよ。死ぬまで、死ぬまで、死ぬまで応援せよ……>
<Hei de torcer, torcer, torcer, Hei de torcer até morrer, morrer, morrer>

アメリカで最多のゴールを記録し、死の直前までピッチサイドで選手を指揮していたルイジーニョ。

古豪アメリカが、ブラジルサッカー界のトップシーンに返り咲く日は、もはや帰ってこないかもしれない。ただ、聖地マラカナンで3番目に多いゴール数を決めている男がアメリカ史上最大の英雄である事実がくすむことはないのである。

下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2022年5月号
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