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クイアバ文協初代会長の植村直正(うえむら・なおまさ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2022年8月号

植村直正さん

南米の「へそ」と称されるクイアバ市。マット・グロッソ州の州都であり、世界的な大湿原地パンタナールの玄関としても有名だ。天然ゴム、砂金、ダイヤモンドなど豊富な資源に魅せられて、各地から人が集まってできた町でもある。

この地に入った日本人移住者のほとんどは他州からの転住組で、初代クイアバ文化協会会長を務めた植村直正さん(84、鹿児島県出身)もその一人だ。
台湾で生まれたという植村さんは1934年、血気盛んな20歳の時にブラジルに渡ってきた。ミナス・ジェライス州ウベラーバ付近の農園で、2年間の契約農としてコーヒー生産に従事した。しかし、契約農として場所を転々とすることに嫌気がさした植村さんは農業に見切りを付け、サンパウロなどを経て53年にクイアバへと移り住んだ。

同地で測量士の仕事を始めた植村さんが、この地に移るきっかけとなったのは、小学校や中学校が数多くあったことだったという。

「サンパウロでは、安心して子供たちを学校にやることができなかった。ここに来て、設備の整った学校がたくさんあったのには驚きました」
と植村さんは、クイアバに来た当初のことを振り返る。

その当時、クイアバ周辺地域には「リオ・フェーロ」、「カッペン」の二つの日本人移住地があった。ある時、カッペン移住地在住の日本人移民がクイアバで死亡した。病院の入院費を払えなかったことが一つの原因で、その頃の日本人移民の多くが苦しい生活を送っていた。このことをきっかけに日本人同士で資金を積み立てはじめ、50年代後半に日本人会が結成された。それが現在のクイアバ文化協会になったという。

初代会長を2年間務めた植村さんにクイアバの街を車で案内してもらいながら、同文協が所持・管理している施設を見せてもらう。94年に新設した会館のほか、旧会館や野球場など、くまなく回ってくれる。新会館には95年に紀宮内親王(現・黒田清子氏)が訪問した時に記念植樹したイペーの樹木が大きく生長していた。

会館の中には、歴代会長の顔写真が飾ってあった。95年当時に会長だった古賀ロベルト氏は、その後、病気で亡くなったそうだ。それを見ながら植村さんはつぶやく。

「紀宮さまの歓迎準備で古賀さんは忙しく働いていました。それが、たたったのでしょうね。しかし、この会館を造ったことは我々にとってもありがたいことですよ」

クイアバに住む日系人にとって初めての皇室関係者の訪問は、あまりにも大きなイベントだった。しかし、その反動で求心力を失い、日系人の文協離れが顕著となる結果となったのは、何とも皮肉なことだ。

「寂しいけれども、それが現実であることは直視した方がいい。もう自分の時代ではないのだから、意見は出さないが」
と植村さんは語る。

現在、週に3回は自宅から12キロメートル離れたゲートボール場に朝5時頃から出かけるという「悠々自適」な日々を送る植村さんだが、重要な行事がある際には、今でも頼りにされている存在だ。

「これからは、日系人の社会だけにこだわっていては何もできないですよ。良い意味でブラジル社会に働きかけていかなければ」

時代の流れが植村さんに一つの答えを出させたが、その思いは次世代に引き継がれつつある。

(1998年11月取材、年齢は当時のもの)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」

月刊ピンドラーマ2022年8月号
(写真をクリックすると全編PDFでご覧いただけます)


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