ビデオ・写真機材輸入業を行う小松英彦(こまつ・ひでひこ)さん 移民の肖像 松本浩治
#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文
「人間というのは、生きているうちは何かやっていないと面白くない」
こう語るのは、87歳となった現在もサンパウロ市内でビデオ・写真機材輸入業を行なっている小松英彦さん(東京都出身)だ。
外科医だった父親の仕事の関係で、中国山東省の済南(さいなん)市で幼少時代を過ごした小松さん。第二次世界大戦が終結した1945年、10歳の時に母方の親戚がいた長崎県に引き揚げた。その後、父親が東京で開業したため、家族一緒に東京で暮らすことに。しかし、小松さんは中国大陸での生活に慣れ親しんでいたこともあり、戦後の荒れ果てた東京での生活の印象は「良くなかった」という。
大学卒業後の59年、小松さんは伯母(父親の姉)が住むブラジルを一人で訪問する機会を得た。伯母は戦前から、キリスト教の宣教活動でパラナ州カンバラ市に住んでおり、小松さんは両親から「ブラジルは良い所だそうなので、見に行ってこい」と言われ、オランダ船で単身、海を渡った。カンバラ市の農園で小松さんを待っていた伯母は、沖縄県人で医師の経験もあった夫の後妻として、10人の子供を抱える大家族を切り盛りしていた。伯母の夫からは、日本から来た青年が珍しかったのか、戦後の日本の様子を根掘り葉掘り聞かれもした。しかし、農園での生活は貧しいながら自然豊かで、他人に干渉しないブラジルの気風は小松さんが幼い頃に過ごした中国と似ていた。
半年ほどカンバラの農場で過ごした後、サンパウロ市に出た小松さんだったが、その頃にはすでに日本に帰る旅費もすっかりなくなっていたという。当時のサンパウロには日本人や日系人も多く、「何か自分で働けることがあれば」と思っていた。そうしたところ、知人の日本人から薄荷(はっか)の輸出業を手掛けていた辻三郎(つじさぶろう)という実業家を紹介され、小松さんはセントロ地区の「御茶の水橋」脇の事務所で働くことに。仕事環境はブラジル人がほとんどだったため、自然とポルトガル語も覚えていった。しかし、同社は薄荷以外に、コーヒーや綿花など国際相場に左右される商品を扱っていたこともあり、70年代に入って倒産してしまった。
70年代初めには、知人の紹介でラジオ局のアナウンスの仕事を行なった経験もあり、その合間に各地の日本人会等で日ポ両語で司会を務めたこともあった。「日本語だけでなく、ポルトガル語ができたため、日系人の方々から頼まれましたね」と小松さんは、当時の楽しかった思い出を振り返る。
その後、「自分で仕事をしなければ」と考えた小松さんは、日本人・日系人が経営する写真館が多いことに目を付け、写真用の印画紙や現像用薬品など感光材料(感材)を扱う仕事を思いついた。写真館をはじめ、新聞社や出版社などプロフェッショナルの専門職を対象に営業活動を行い、一時はブラジル人の従業員を20人近く雇っていた時期もあったという。また、単なる営業活動だけではなく、カラー写真現像用の薬品調合のコントロールを自ら行うなどの技術が重宝がられた。仕事の合間には、趣味で写真クラブの撮影会にも参加し、撮影したフィルムを自ら白黒現像して写真プリント作品を作るなどして楽しんだ。
しかし、写真の感材業界もそれまでのフィルム・印画紙の全盛時代から現在のようなデジタル化が進み、時代の波が押し寄せた。自然と小松さんの仕事も需要が少なくなるなど影響を受け、規模の縮小を余儀なくされた。10年ほど前からはビデオ・ 写真機材の輸入を行うようになり、今も現役で仕事を継続している。
「今の日本は外から見ていると、特殊な国という印象を受けますね。中国大陸で育った私はブラジルの気質が合っているし、ここでの生活を楽しんでいますよ」
と小松さんは、充実した表情を見せていた。
(2022年1月取材)
月刊ピンドラーマ2022年3号
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