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レオナルド・ペレイラ クラッキ列伝 第153回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2022年7月号

レオナルド・ペレイラ

ブラジルのサッカーを語る上で「レオナルド」と言えば、ブラジル代表でも背番号10を託された端正なレフティを思い出すブラジル人が大半だ。

しかし、ことレシフェを拠点とする北の雄、スポルチのサポーターは別である。

彼らにとってレオナルドとは小柄な右利きのテクニシャン、レオナルド・ペレイラを意味するのである。

ピアウイ州のピコでレオナルドは1974年に誕生した。生まれ故郷のクラブであるピコスの下部組織で技を磨いたレオナルドは166センチと小柄なアタッカーだったが、足元にボールが吸い付くようなテクニックとシュートセンスを併せ持っていた。

そんな技巧派を名門クラブが放っておくはずがない。1992年にスポルチに移籍したレオナルドは、のちにブラジル代表でも活躍するフリーキックの名手、ジュニーニョ・ペルナンブカーノと息の合ったコンビを見せ、スポルチでも活躍。2人は1995年にヴァスコ・ダ・ガマに移籍するのである。

1994年にコパ・ド・ノルデステの優勝に貢献し、この年のブラジル全国選手権ではテレ・サンターナが率いた世界王者、サンパウロに5対2で大勝するなど、印象的な活躍も見せたレオナルド。しかし、ヴァスコ・ダ・ガマやコリンチャンス、パウメイラスを渡り歩きながらもブレークしきれなかった傷心の技巧派は1997年、再びスポルチに舞い戻り、古巣でブレークを果たすのだ。

スポルチのホームスタジアムは「イーリャ・ド・レチーロ」と呼ばれるが、印象的なゴールを数々と重ねるレオナルドは「イーリャの脅威」の愛称を与えられ、サポーターの心をガッチリと掴んでいた。
 2002年から再び、ヴィトーリアやアトレチコ・ミネイロなどでプレー。ビッグクラブでの成功を夢見て、挑戦に挑んだレオナルドだったが、水が合うのはやはり、イーリャ・ド・レチーロでのプレーなのだ。2004年に三度、スポルチでのプレーを選んだレオナルドはその後、北東部の中堅どころや小クラブを転々とし、2012年にスパイクを脱いだ。

スポルチに6つのペルナンブーコ州選手権のタイトルをもたらし、コパ・ド・ノルデステでも2度優勝。GKのマグロンと並んでクラブ史上最もタイトルを手にした男でもある。そして、367試合で叩き出したゴールの数は実に133点。この数字はクラブ歴代3位の堂々たる成績だ。

現役引退後、スポルチの下部組織でヘッドコーチを務めていたレオナルドは、指導者のキャリアを順調に歩んでいたかに見えたが2016年、悲劇が待っていた。火がよく通っていない豚肉を食べたことで脳嚢虫症に感染。闘病むなしく、この世を後にした。

「悲しいよ。レオがこんなに早く世を去ったことを嘆いている。もっと人生が続いたはずなのに……」
とジュニーニョ・ペルナンブカーノは僚友の死を悼んだ。

そして2000年にスポルチを率いたエメルソン・レオンはレオナルドの死をブラジル人記者からの電話で知った時、受話器口でこう叫んだという。
「どのレオナルドだ? FWのレオナルドだって? 彼は私の選手だった。残念だ」

レシフェの街に喜びと興奮をもたらした「イーリャの脅威」は、故郷ピコの土に眠っている。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

ラストピース 下薗昌記著


月刊ピンドラーマ2022年7月号
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