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デル・デッビオ クラッキ列伝 第144回 下薗昌記 2021年10月号
#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ 2021年10月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文
クラブ創設以来、110年の長きに渡る歴史を誇るコリンチャンスにおいて、最初のアイドルは言わずと知れたネッコである。
1913年から1930年までの17年間の在籍歴はクラブ史上最長だが、手にした8つのサンパウロ州選手権のタイトルもクラブ史上最多。しかし、クラブの長い歴史を紐解くと、ネッコの功績に勝るとも劣らない記録を持つクラッキの姿が浮かび上がってくる。
男の名前はアルマンド・デル・デッビオ。まだコリンチャンスがこの世に存在してなかった1904年、サントス市に生まれたデル・デッビオは、今は存在しないサン・ベントでサッカー界のキャリアをスタートさせたが、1922年にコリンチャンスのユニフォームをまとった。
器用なセンターバックではなかったが、フィジカルの強さと闘争心を持ち合わせていたデル・デッビオは移籍一年目にレギュラーを獲得し、サンパウロ州選手権優勝に貢献すると、1924年まで3連覇を達成する。
栄光に満ちたキャリアのスタートだった。
1928年から再び、サンパウロ州選手権で3連覇を果たしたが、ブラジル全国選手権が存在する現在とは異なり、当時のブラジルサッカー界では各州の選手権が狙いうる最高の栄冠である。国内屈指のザゲイロ(センターバック)として1929年にはブラジル代表にも選出されたが、次なる舞台はイタリアのセリエAだった。
1931年にイタリアのラツィオに移籍し、1937年までプレー。そして再び愛する古巣、コリンチャンスでのプレーを選んだデル・デッビオは復帰一年目の1937年にサンパウロ州選手権で優勝を手にするのだ。
クラブがプロ化して以来初めての栄冠だった。
この時点で彼が手にしたのは通算7つの優勝だったが、8つ目の栄冠は偶然かつ牧歌的な時代だから許された奇跡のタイトルだった。
現役を退いた直後、1938年からコリンチャンスの指揮官を務め、1938年には早くも監督としてサンパウロ州選手権を制していたデル・デッビオだったが、1939年10月のイピランガ戦で選手にアクシデントが生じたため、監督としてベンチに座っていたはずのデル・デッビオがピッチに立ったのだ。
1試合だけの予期せぬ現役復帰によって、1939年には選手、そして監督としてサンパウロ州選手権を制したことになるデル・デッビオ。様々なクラッキや、名将を生み出してきたコリンチャンスではあるが、1939年のこの偉業は、間違いなく前代未聞であると同時に、唯一無二の記録である。
監督としても5度のサンパウロ州選手権を制し、サンパウロ州選抜の監督も務めたデル・デッビオは選手、指揮官の双方でクラブ史にその名を刻んだ数少ない男だった。
下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。
月刊ピンドラーマ2021年10月号
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