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カルロス・マルティン・ボランテ(アルゼンチン) クラッキ列伝 第179回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年10月号

カルロス・マルティン・ボランテ

ブラジルのサッカー界では、かつて数々のクラッキが中盤で輝いてきた。

とりわけ中盤の後方で、試合をコントロールしたり、相手の攻撃の芽を摘むボランチのポジションは、緩急を生み出すブラジルサッカーの生命線とも言える役割を与えられている。

ポルトガル語で「ハンドル」や「舵取り」を意味する、と一般的に言われるボランチであるが、実は一人のアルゼンチン人MFの名に因むという有力な説があることをご存知だろうか。

数々の驚くべき、または目を疑うようなエピソードに事欠かないブラジルサッカー界には筆者も慣れっこではあるが、2012年2月にランセ紙がネットに掲載した記事に仰天したのを今でも覚えている。

その記事の見出しはこうである。「フラメンゴはボランチのポジションの名付け親の地で試合をする」。

フラメンゴがコパ・リベルタドーレスのグループステージで対戦したのはアルゼンチンのラヌース。ラヌースが輩出したカルロス・マルティン・ボランテはラヌースでプレーした中盤の名手だった。1929年にはコパアメリカでアルゼンチン代表の一員として優勝も経験している。

1910年生まれで、イタリア系の移民の子でもあるボランテは1924年にラヌースでデビュー。その後はイタリアのナポリやフランスのレンヌでプレーしたボランテだが、1938年のワールドカップ・フランス大会にはブラジル代表の一行に加わるという異色の経歴を持っている。

南米で再びプレーしたいと考えていたボランテは、当時のブラジル代表にマッサージ師が不在だったことを知り、面識があったブラジル代表の指揮官に頼み込んだのだ。

選手やコーチとしてではなくマッサージ師としてブラジル代表に関わったボランテだが、この時の人脈を生かして1938年にフラメンゴ入りするのだ。

ブラジルの国立公文書館にはフラメンゴが残した記録が今でも残っている。1938年10月8日、ボランテはフラメンゴと契約したのだが、1939年から4度にわたってリオ・デ・ジャネイロ州選手権で優勝。そんなピッチ内での貢献もフラメンゴの歴史の一部として残っているが、献身的で中盤の底でチームを引っ張るプレースタイルが、その後、「ボランチ」の語源となるのだ。

「ボランテのように、プレーしろ」。アルゼンチン人の名手をお手本にせよ、とこんな言葉が飛んだと記事にはあるが、やがて、中盤の底でプレーする選手はボランテにちなんで「ボランチ」と呼ばれるようになったというのである。

天才マラドーナを擁するアルゼンチン代表が2度目の世界制覇に成功した翌年の1987年、ボランテはこの世を去っている。ただ、ランセ紙は2012年、ラヌース市内に在住するボランテの甥に取材している。

「美しい物語だね。彼はアルゼンチンで成功しただけでなく、ブラジルサッカー界の記憶にも刻まれている。偉大な選手であり、それは彼が受けた美しい賛辞を見れば一目瞭然だ」と新聞記者として働く甥は話している。

そしてボランチの起源とされる男は、1944年にフラメンゴで現役を引退。監督としての第二のサッカー人生でも偉業を果たしている。

1959年にはブラジルにおける最初の全国的な大会として認識されるタッサ・ブラジルでバイーアを優勝に導いたのだ。

つまり、ボランテはブラジルの全国的な大会で最初に優勝を経験した外国人監督でもあったのだ。

実に奥深きブラジルサッカーの歴史――。まだ紐解かれていない逸話が、王国には眠っているはずだ。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年10月号表紙

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