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第74回 実録エッセー『彼の名前を覚えよう』 カメロー万歳 白洲太郎 月刊ピンドラーマ2022年5月号

#カメロー万歳
#月刊ピンドラーマ  2022年5月号 HPはこちら
#白洲太郎 (しらすたろう) 文

どこの国に住んでいても生活上のトラブルとは常に付き合っていかねばならないが、それがブラジルのど田舎ともなれば、いろんな事件が発生する。

たとえば今日、朝起きてみると裏庭の地面が沈下していた。前から弱っているな、とは思っていたものの、見て見ぬフリをしているうちに事態は確実に進行していたらしい。気がつけば1メートル四方の範囲で亀裂が入り、今にも崩れ落ちそうなのである。    

恐る恐る、状態を確認するために手のひらで押してみると、

ずしーん。

という音とともに、勢いよくセメントの塊が落盤した。なんということであろうか、よく晴れた日の早朝6時、我が家の裏庭はまるで砲撃でも食らったかのような惨状になり果ててしまったのである。

これはさすがにマズい。

裏庭では洗濯物を干したり、毛布を日光浴させたりといったイベントがよく開催されているし、コーヒーの木やモリンガ、レモングラスなど、まったく統一性のない植物たちが気まぐれに植えられているため、彼らの世話をするにおいてもこの巨大な穴は弊害となる。

ついでにいうと我が家の裏庭は運動場としての役割も担っていて、ちゃぎのはカポエイラ、ボクは腕立て伏せ、さらには2人の共同事業としてキャッチボールが行われることもたまにあるのであり、一刻も早い修繕が求められる。

こういうときに頼りになるのが、近所に住むベラジーニャだ。彼の本職は学校の先生だが、隣人たちへの気軽な大工仕事も請け負っていて、ボクらも何度かお世話になっていた。最近の例では、ちゃぎのの部屋の天井板が野良猫とともに落ちてきたことがあったが、これもベラジーニャに出動を要請し、事なきを得たのである。そのさらに数か月前にはシャワールームのタイルが落盤、絶体絶命のピンチに陥ったが、彼はわずか半日で工事を終えてみせた。我々にとって足を向けては寝られぬ人物、それがベラジーニャなのである。

このように彼とは良好な関係を保ってきたが、ボクにはひとつだけ悩みがあった。知りあってからもう10年以上がたつが、彼の呼び名である『ベラジーニャ』という固有名詞がどうしても覚えられず、ほとほと困り果てていたのだ。この悩みはつい最近、解消することができたが、10年もの間、なぜ彼の名前を覚えることができなかったのか、甚だ疑問であった。人の名前はすぐに覚える方なのに、ベラジーニャに限ってはそうはいかぬ。一体全体どういうこと?と、首をかしげる日々が続いていたのである。だが、こうして文章を書き、熟慮・熟考を重ねていくうちに真相が見えてきた。その理由はごくシンプルなものだったのである。

皆さんはgeladinho (ジェラジーニョ)という氷菓子をご存じだろうか? 透明のビニール袋に果汁ベースの液体を流し込み、それを凍らせただけというアイスもどきのオヤツで、日本でいうチューペットのような存在である。気軽に作ることができるため、そのへんの主婦が家で用意したジェラジーニョを市場で売ったりもしている。Picolé (棒アイス)と並んで、ブラジルを代表する夏の風物詩だ。しかし、まさかこのジェラジーニョの存在が仇になるとは…。10年もの間、仲の良い隣人の名前を覚えることができなかったのは、まさにこのジェラジーニョのせいだったのである!

つまりはこういうことだ。

何かの用事を思いたち、彼の家を訪ねに行く。門の前で名前を呼ぼうとするが、

(あれ?彼の名前ってジェラジーニャだっけ?それともジェラジーニョだったかなあ?)

と、この時点でもうラビリンスに迷い込んでいるのである。ブラジルを代表する氷菓子、ジェラジーニョの存在感はデカい。似たような名前ならすべてジェラジーニョとされてもおかしくないくらいのビッグネームの前で、『ベラジーニャ』というネーミングはいかにも弱いのである。つまり、彼の名を呼ぼうとするとき、必ず先に浮かんでくるのがジェラジーニョという単語であり、いったんそれがインプットされてしまうと『ベラジーニャ』などという呼称は、何をどうしたって出てこない。その度に名前を思い出すのを諦め、『Oi!』とか『Amigão!』などの言葉を発することによって対処してきたが、そうこうするうちに10年が過ぎてしまったというわけなのである。

これまでに何度も『彼の名前を覚えよう』と決心、その都度、悲壮な覚悟をもって『ベラジーニャ』という単語の暗記に努めたが、成果はなかった。もはやこれまでかと諦めかけたとき、『夢は書けば叶う』といった論調の自己啓発本のアドバイスを思い出し、冷蔵庫の横に張ってあるホワイトボードに『ベラジーニャ』とメモ書き、1日最低3回は眺めることにした。最初は苦戦したが、毎日続けていくうちに効果はてきめん、ようやくボクは『ベラジーニャ』という名前を覚えることに成功したのである。今後、ジェラジーニョと混同することは2度とないだろう。長い戦いの歴史に終止符が打たれた瞬間であった。

ところで、ベラジーニャとはポルトガル語でbeiradinhaと書くらしい。グーグル辞書で調べたところ、意味の欄には『へり、縁、岸、ひさし、一部分、少量、近所、周囲』とあり、この中のどの部分が彼のあだ名の語源となったのかは定かでないが、本人いわく、『物心ついたときからそう呼ばれていた』とのことである。あだ名とは得てしてそういうものなのかもしれない。

と、ここで、裏庭の惨状を思い出したボクは壁掛け時計を眺める。

ちょうど午前7時をまわったところだ。

できれば今日、今すぐにでも工事をしてもらいたいところであるが、ベラジーニャのスケジュールはどうであろうか?


白洲太郎(しらすたろう)
2009年から海外放浪スタート。
約50か国を放浪後、2011年、貯金が尽きたのでブラジルにて路上企業。
以後、カメローとしてブラジル中を行商して周っている。
yutanky@gmail.com
Instagram: taro_shirasu_brasil
YouTube: しらすたろう
Twitter: https://twitter.com/tarou_shirasu


月刊ピンドラーマ2022年5月号
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