見出し画像

アマウリ クラッキ列伝 第139回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2021年5月号

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2021年5月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

画像1

画像2

 本能の赴くままにピッチを駆ける破天荒な天才を数多く輩出してきたブラジルだが、同時にこのサッカー王国ではごく稀に、文武両道を地で行くクラッキが現れることがある。

「ドトール」の呼び名で知られたソークラテスや、トスタンはその代表ではあるが、その先達となる名手が、1950年代のベロ・オリゾンテにいた。

 抜群の技術を持ち、相手ボールを奪う能力に長け、チームに忠実、それでいて、10年以上、退場処分になったことがないボランチとは誰だーー。

  あたかも、スフィンクスの謎かけにも似たこの問いに即答できる者は、間違いなくクルゼイロのオールドファンである。

 ボランチとして全ての要素を兼ね備えていた男の名はアマウリ・デ・カストロ。1932年、ミナス・ジェライス州のカルモーポリスに生を受けたアマウリは、11歳の時にベロ・オリゾンテでの生活をスタートさせる。

 幼少からサッカー選手になることを夢見ていたアマウリではあるが、ベロ・オリゾンテに移り住んだのは学業が目的だった。

 医師揃いの家庭に育った彼もまた、サッカーボールを愛しながらも、右手には鉛筆を握ることを忘れなかった。

 アメリカの下部組織でプレーしていたアマウリは十代でミナス・ジェライス州選抜に名を連ねるほどの逸材でありながら、薬科大学を目指して勉強。そんな文武両道の逸材は1954年、セッテ・デ・セテンブロでプロの世界に足を踏み入れるが、そこで得た給料は学費に充てていたという。

 当初はアマチュア契約で加入したアマウリだったが、そのサッカー人生が大きく変わったのは1958年のミナス・ジェライス州選手権の大一番だった。

 対戦相手は名門のクルゼイロ。その試合で勝利すれば、優勝が決まるはずだったクルゼイロに3対2で逆転勝利を収めたセッテ・デ・セテンブロだったが、逆転の決勝ゴールを決めたのは他ならぬアマウリで、まさかの敗戦に怒り狂ったクルゼイレンセ(クルゼイロのファン)は、若きアマウリに大ブーイングを送ったが、彼らはまだ知らなかった。

 その後、アマウリがクルゼイロが手にする数々のタイトルに主力として貢献することを。

 1957年、クルゼイロに引き抜かれたアマウリだったが、1958年には薬科大学に合格する。

「父から叔父までが医者の家系の僕にとって、大学合格がいかに大きなものだったかわかるだろ。僕は当時、サッカーと学問の双方に行ったり来たりの日々だった」

 アマウリの述懐である。

 1957年から1962年まで在籍したクルゼイロでは1959年からミナス・ジェライス州選手権で三連覇を達成。ボランチとして献身的なプレーを見せる一方で「幸運にも相手のペナリティエリア近くでは僕にボールが溢れて来て、それを逃すことなくゴールを決めたものさ」。

 223試合で奪ったゴールは40。ボランチとしては十分に及第点がつく数字である。

 1962年、29歳の若さでアマウリはスパイクを脱ぐ。

「薬学に心血をそそぐべき時が来たと思ったから引退したんだ。僕の父が歩んだ道を進むことにした」

 きっぱりとプロサッカーの世界に別れを告げたクラッキは、その後クルゼイロで役員も務め、週末にはOBで構成される「ラポザォン」でもプレーする。

 2012年、この世を去ったアマウリだが、10年間にわたって退場処分を受けなかった選手に与えられるベウフォルト・ドゥアルテ賞も手にしている。

 文武両道でありながら、フェアプレーも忘れなかった名手は、クルゼイロが誇るクラッキの一人であり続ける。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2021年5月号
(写真をクリック)

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?