第2次松原移民で村長経験の谷口文太郎(たにぐち・ぶんたろう)さん 移民の肖像 松本浩治
#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文
第2次世界大戦後、日本の国策による第1回移民として、南マット・グロッソ州ドウラードス近郊に入植した松原移民。和歌山県出身の戦前移民で、サンパウロ州マリリア市に住んでいた故・松原安太郎(やすたろう)氏が当時のジェトゥリオ・ヴァルガス大統領から受け入れた移民枠により実現し、計60数家族が1953年、3次に分かれて海を渡ってきた。
松原移民第2次渡航者の代表責任者でもあり、和歌山県内で村長経験があったことで、松原氏から移住地入植の世話役も任されていたのが谷口文太郎さん(92、和歌山県日高郡出身)だ。
戦中に徴兵されていた谷口さんは45年10月に和歌山へと戻り、地元農協の食糧配給を担当後、50年頃から3年間は村長も任された。そうした中、戦後初めてのブラジル移住の話を他県に先駆けて受け入れた和歌山県では、松原氏が当時の県知事を通じて移民を募集。その頃の谷口さんは39歳と、県内に約300あった市町村の中でも最も若い村長だった。県知事の命令により、移民募集の話を各市町村に呼びかけ、自らも責任者としてブラジルに行かざるを得なくなった。
谷口さんは家族でブラジルに渡り、53年8月8日にサントス港に到着。ノロエステ鉄道でカンポグランデを経由して終着点のイタウン駅までは5日間を要した。同駅からトラック3台ほどに分乗し、そこから約90キロ離れた施設に一時的に収容された。一行はすぐにドウラードス日本人会初代会長の自宅に迎えられ、そこで待っていた松原氏の出迎えを受け、握り飯などをご馳走になったという。
「入植地は整地されている」と日本では聞かされていたが、実際には原始林の大木が無造作に切り倒されているだけだった。女性や子供たちをドウラードスにあった病院内の簡易収容所に残し、15歳以上の男性には開拓の義務が背負わされた。男たちは翌日から、すでに道づくりのために原始林に入っている第1次船の人々に合流。9月下旬にようやく道づくりが終わり、10月1日に待望の入植ができたのだった。
入植してすぐに松原移民たちは食糧確保のために陸稲、フェイジョン(豆)、トウモロコシや野菜などのほか、豚や鶏などの家畜を飼った。実際にカフェを植えたのは、翌54年10月からだった。
同年8月には、移住地で初めてのカフェの植付けを2か月前に控えて、ブラジル国内では衝撃的な出来事が発生。当時のヴァルガス大統領が自殺し、国民は騒然となった。松原氏は信頼していた大統領を失い、移住地への経済的工面ができなくなり、翌55年の終わり頃には和歌山に帰ることに。その後、故郷で生涯を終えている。
移住地への配給資金などは当時、松原氏が出資していたが、氏の帰国でそれができなくなった。そのため、谷口さんは金策に走り回り、当時リオ市にあった在ブラジル日本国大使館を訪問して農業担当官に直訴。やっとのことで移住地に来てもらい、60家族分の食糧代を2年間にわたって立て替えてもらったという。 移民たちはそれぞれ、わずかながらも営農資金を持って来ていたが、カフェ栽培の準備などで使い果たしていた。
一方、「唯一、金のなる木」として期待されたカフェだったが、55年7月の降霜で被害を受けた。「辛抱して、続けよう」と励ましあったが、57年、59年にも続けて霜害に。その後も3年に1回くらいの割合で降霜にやられたという。
松原移住地では60年、日本政府機関の援助により、カフェ精選出荷組合(松原組合)を設立。初代組合長に谷口さんが就任した。64年には松原組合を発展的解消した南マット・グロッソ産業組合が誕生。同組合は、当時「南米最大」と言われたコチア産業組合の単協的役割を果たし、松原移住地だけでなく、ドウラードス周辺地域をはじめ、ドイス・イルモンエス・ド・ブリチ、カンポグランデ、コルンバなど、南マット・グロッソ州全域を網羅していた。
しかし、相次ぐ霜害に「これだけやってカフェができんなら、他に移るしかない」と、谷口さんは77年に移住地を離れ、先に転住していた長男を頼ってドウラードスから北に約250㎞離れたドイス・イルモンエス・ド・ブリチに移転した。だが、同地でも82年の降霜とともにカフェの国際相場が暴落。それ以後はトウモロコシ、大豆や綿などの生産に切り替えざるを得なかった。
谷口さんは農業生産活動を長男に任せ、同地で好きなピンガを飲み、タバコを吸いながらもマラクジャ(パッションフルーツ)等を趣味で植えるなどして晩年を過ごした。
(故人、2003年8月取材、年齢は当時のもの)
月刊ピンドラーマ2022年5月号
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