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フィリペ・ルイス クラッキ列伝 第170回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年1月号


フィリペ・ルイス

「アモール・ア・カミーザ(ユニフォームへの愛)」。札束が幅を利かせる今のサッカー界において、死語になりつつある言葉を、2023年12月3日、マラカナンスタジアムに集ったサポーターは改めて噛み締めたのではないだろうか。

ブラジル全国選手権の最終節でフラメンゴはクイアバーと対戦。63148人の両サポーターが詰めかけた一戦はフィリペ・ルイスの現役最後の一戦だった。

試合前、ゴール裏のサポーターが掲げたイラストは、フラメンゴのユニフォームを着た幼きフィリペが祖父に抱かれている写真をイラストとして描いたものである。

そう、フィリペは生粋のフラメンゴサポーターだったのだ。キックオフ前の整列で、早くも目に涙を浮かべていたフィリペだったが、ベンチで見守った「悪童」ガブリエウもともにフラメンゴの栄光を支えた僚友の最後の勇姿に涙した。

フィリペ・ルイス・カスミルスキ。1985年にサンタ・カタリーナ州のジャラグァー・ド・スウで生まれたフィリペは、多民族国家ブラジルを象徴するような男である。

カスミルスキの姓はポーランドがルーツだが、イタリア人の祖母2人を持ち、父方の祖父はポーランド人、母方の祖父はドイツ系のオーストラリア人。金髪の長髪が似合うフィリペは端正な顔立ちで、一見するとサッカー選手とは思えない「優男」の見た目だが、生まれながらにサッカーの才能と、左利きという優位性を持ち合わせていた。

ブラジル南部の小さな町であるジャラグァー・ド・スウだが、この町にはフットサルというスポーツがDNAとして根付いていた。フットサルの名門ジャラグァーではファウカンやマノエウ・トビアスといったスターもプレーしているが、父の影響で10歳になる前からフットサルでフィリペはその技を磨いていく。

「ジャラグァーでフットサルの文化はすごく強いんだ。僕の息子、チアゴもフットサルで技術を磨いているよ」(フィリペ)。

父に与えられた道をすでに、自らの息子チアゴにも歩ませているフィリペだが、背番号10を与えられ、フットサルではU-15のサンタ・カタリーナ州選抜にも選出。そんな細身のレフティに目を付けたのが地元の名門、フィゲイレンセの下部組織だった。

14歳でフットサルに別れを告げたフィリペは2003年にフィゲイレンセでプロデビュー。ブラジル国内ではビッグクラブでプレーすることなく、2004年にオランダの名門、アヤックスに移籍し、欧州での輝かしいキャリアをスタートさせるのだ。

ラ・コルーニャでは2008-09年のスペインリーグ最優秀左SBにも選ばれ、2010年からはアトレティコ・マドリーに移籍。ここでフィリペは世界屈指の名将、アルゼンチン人のディエゴ・シメオネのもとで世界屈指の左SBに成長していく。

U-20ブラジル代表も経験し、ブラジル代表でも2013年のコンフェデレーションズカップ優勝メンバーに名を連ねながらもマルセロの影に隠れ、ワールドカップ本大会は2018年のロシア大会で負傷交代のマルセロに代わって1試合に出場したのみだったが、キャリア最高の瞬間は、「終の住処」として移籍してきた2019年のフラメンゴ移籍以降の日々だった。

この年、33歳にして「心のクラブ」のユニフォームに身を通したフィリペは、1981年以来となるコパ・リベルタドーレス制覇に貢献。近年の南米サッカー界をパウメイラスとともにリードし、2022年、再びコパ・リベルタドーレスの優勝を勝ち取るのだ。

フラメンゴでの4年半では2度の南米制覇と2度のブラジル全国選手権優勝を経験。ジーコを擁した黄金期を上回る栄光を手にしたフィリペも、かつてのジューニオルやレアンドロら偉大なるSBの系譜に名を連ねたと言っていいだろう。

2023年限りでの現役引退を公表した11月、「人生で最高の日々だった」と語った言葉は、フラメンゴを愛した男の本音である。

第二のサッカー人生を指導者として歩むフィリペ。欧州最先端の戦術を体現してきた細身のレフティは、いつかフラメンゴの指揮官としてマラカナンに帰って来そうな気配がする。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年1月号表紙

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