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「運の尽きでブラジルへ」 黒酢二郎の回想録  Valeu, Brasil!(第3回) 月刊ピンドラーマ2023年10月号

前回は入院中に転職を決意し、退院後にそれを実行したところまでお話しました。その会社に転職したことが、後にブラジルで暮らすことになる直接的なきっかけとなったのです。実は転職先の会社では海外要員を募集しており、それに応募して採用してもらったため、入社後しばらくしてから赴任希望国アンケートがありました。そこには、第一希望から第三希望まで書くことになっており、元来ミーハーな私は迷うことなく、第一希望にオーストラリア、第二希望にカナダと記入しました。いずれも今後成長が期待できる治安の良い英語圏の先進国で、当然ながら希望者も多い赴任地です。

そして第三希望には、まさかそうはならないだろうとたかを括ってブラジルと記入してしまったのです。なぜそうしたかというと、それは「ブラジルの奇跡」と呼ばれた1968年から1973年にかけてのブラジルの高度経済成長が関連しています。そのブラジルの発展を契機に、1970年代以降日本からの進出企業が飛躍的に増大し、1977年から80年にかけて進出のピークとなりました。私は小中学生の頃、父親が勤める会社の社宅に住んでいたのですが、なんと両隣にブラジル生活経験家族が入居しており、彼らからブラジルの話を聞いて育ったため興味津々だったのです。正直言って、その南米の国への憧れまでは抱いていませんでしたが、多いなる親近感をもっていたわけです。

第三希望にブラジルと記入したのが運の尽き、入社後1か月くらいした時に副社長に呼ばれて、こんな話をされました。「黒酢君、先日の赴任先希望アンケートにブラジルと記入してくれていたが、実に頼もしいねえ。宜しく頼むよ!」と肩を叩かれ、昼食までご馳走になってしまったのです。当時の私は「あれは洒落で書いただけですよ、本気にしないで下さいね、副社長!」と言えるほど面の皮が厚くなかったので、図らずもブラジル行きが決定してしまったのです。アンケートにブラジルと記入した社員は、恐らく私が唯一だったのでしょう。その夜は、「地球の反対側でどないすんねん!」という焦りと後悔で寝付くことができませんでした。インターネットが発達し、世界のあらゆる最新情報が簡単に手に入る現在とは異なり、当時はブラジルに関する情報は書籍などを通じて入手するしかなく、物理的な距離もさることながら、心理的な距離も遥か彼方に感じられました。

それからというもの、日中の業務に加えて、夕方から週2回のポルトガル語レッスンが始まりました。魅力的な若いブラジル人女性が先生だったので、ポルトガル語の上達が目的というよりも、その先生と仲良くなるためにレッスンに通っていたわけですが、ブラジルでも英語が通じるはずだと何の根拠もなく思い込んでいたこともあり、ポルトガル語はほとんど身に付くことなく、ついに運命の日がやってきました。1992年の半ば、転職後1年足らずでサンパウロ赴任となったのです。

日本からワープロ(ワードプロセッサーという今は亡き代物)を携えて、VARIG航空の便に乗り込みました。生まれて初めてのブラジル行き、そして生まれて初めてのビジネスクラス搭乗という初めて尽くしで緊張したのか、機上からの景色や機内食のことなどは殆ど記憶になく、経由地がロサンジェルスだったことだけ覚えています。サンパウロに到着するまでが非常に長く感じられました。今になって振り返ると、私自身もかなりのお調子者ながら、入社1年未満の役立たずの独身の若造をブラジルに派遣する会社もかなりイケてましたね(苦笑)。こうして南米最大の都市サンパウロでのサバイバルが始まったわけです。

(続く)

Varig航空


黒酢二郎(くろず・じろう)
前半11年間は駐在員として、後半13年間は現地社員として、通算24年間のブラジル暮らし。その中間の8年間はアフリカ、ヨーロッパで生活したため、ちょうど日本の「失われた30年」を国外で過ごし、近々日本に帰国予定。今までの人生は多くの幸運に恵まれたと思い込んでいる能天気なアラ還。

月刊ピンドラーマ2023年10月号表紙

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